ほとんどの人が食事の前後にお唱えしている言葉、「頂きます、ご馳走様」。 しかし、この言葉が仏の教え(仏教語)だと知っている人は、意外に少ないかもしれません。 「頂きます」は動植物のかけがえのない命を頂くこと。「ご馳走様」は食事などのおもてなしをする為に、あちらこちらと食材を求めて走り回る苦労に感謝する言葉です。
私たち人間は、自分の命を保つためには、たくさんの命を頂かなければなりません。 お米一粒一粒は小さいのですが、もしあなたの口に入らずにもみ種として田んぼに蒔かれれば、翌年には何百粒にも成るのです。 そういう「命」を頂いて、私たち人間は生かしてもらっており、生かされているのです。ですから、食事をするときには「お米さん、おかずさん、あなた方のお命を頂きます。」という気持ちで手を合わせるのです。 それが「命に手を合わせる」ということなのです。 その「命」とは「ほとけ」ですから、「頂きます」は「みほとけに感謝し、この食事を頂きます。」であり、また、 「ご馳走様」は「この命を無駄にすることなく、日々のつとめに励みます。」という気持ちを込めて、食事の前後に手を合わせるのです。
それではここで、食事を始める前に手を合わせてお唱えする禅門の言葉「五観の偈」を紹介しましょう。
一(ひとつ)には 功の多少を計(はか)り、彼の来所を量(はか)る。
(感謝)第一には、この食べ物が多くの人々の苦労により作られ、今ここにあることを感謝いたします。
二(ふたつ)には 己が徳行(とくぎょう)の、全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず。
(反省)第二には、自分はこの食事を頂くのにふさわしい行いができているかどうかを反省いたします。
三(みつ)には 心を防ぎ過(とが)を離るることは、貪(とん)等を宗(しゅう)とす。
(修養)第三には、むさぼり、怒り、愚痴の心をおこさないようにお誓いいたします。
四(よつ)には 正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり。
(目的)第四には、良い薬のように、心と体を養うために頂く事を理念といたします。
五(いつつ)には 成道(じょうどう)の為の故に、今此の食を受く。
(目標)第五には、仏道の成就、円満なる人格の完成を目標といたします。
仏道は実践するためのものです。 どうぞ皆様も食事の前には合掌して「頂きます」、食事の後には合掌して「ご馳走様」とお唱えしてください。 この習慣化した日本人の食生活のマナーが、正しい生活の基となります。
欲しい欲しいと思っていたものが手に入った時や、苦労に苦労を重ねてやっとの思いで成功した時、厳しい競争に勝利した時など、これ以上の喜びはないというような、得意満面の様子を現す言葉ですが、これが仏教から出た言葉であることをご存知でしょうか。
仏教では、凡夫(ぼんぷ)が修行を積み重ねることにより、「欲界」から「色界」。「色界」から「無色界」へと進んで行くと説きます。
「欲界」とは、欲望の支配する世界で本能的欲望が盛んで強力な世界を表します。
「色界」とは、「欲界」の上に在って、汚れを離れた、物質的なものがすべてが清浄なる世界で、「初禅天」「二禅天」「三禅天」「四禅天」に分けられます。
さらに「初禅天」「二禅天」「三禅天」は『三天』に分けられ「四禅天」は『九天』に分けられています。
この「四禅天」最後の九天の最頂上を「色究竟天(しきくきょうてん)」と言い、別名を「有頂天」と言いますが、「有頂天」は、いまだ「色界」に属しており「無色界」には属しておりません。
「無色界」は、「色界」の上にある精神だけの世界を表します。
つまり、九天の最頂上が「有頂天」ではありますが、「無色界」には到達していない状態を言います。
にもかかわらず、いい気になって有頂天のままで、修行を怠ったり、邪念を起こしたりすると、九天から転落してしまうことになります。
これを「九天直下」と言い、次には「無色界」に入れるという、天界のかなり上から、まっ逆さまに落ちることを意味しています。
世の中の、名人、上手と言われる方々のお話を聞くと、いかに賞賛されようとも、それぞれの道に、「さらに精進、努力して行きます。」と、答えられる姿には感心をさせられるものです。
仏教では、はしゃぎすぎや、慢心を戒めておりますが、「勝って兜の緒を締めよ。」のことわざが示すとうり、あるいは、「驕(おご)れる者久しからず」と言われるとうり、有頂天にあるときにこそ、用心が大切なことは、よくよくお解り頂けたでしょうか。ご用心。ご用心。
月に一度、ご詠歌の指導にお伺いするお寺様で、年末の勉強会後の茶話会でのことでした。
「先生、この冬は年賀状を出せませんが、よいお年を・・・。」と参加者の一人であるAさんが私に話しかけてきました。年齢が80代前半のAさんは、今春、旦那様(享年93歳)を先に見送られたそうです。Aさんいわく「十も年の離れた私は、あの人にとってずっと未熟者だったかもしれないけれど、62年間連れ添ってあの人は一言も私に嫌なことをいったことが無かったのですよ。」と伴侶の在りし日のことを私に語ってくれました。
その言葉を耳にして私は「62年間ただの一度も!?」と驚きと共に一瞬の疑念を抱きましたが、そう語った後のAさんの穏やかな顔を見て、すぐにそれが偽らざる真実であることを察しました。
私は、「さぞ、お優しい旦那様だったのですね。」と言い更に、お茶を口にはこびながら「Aさん、それはきっとあなたも旦那様と同じく、お互いに相手を敬い愛おしみながら二人で歩み続けてきた人生だったからこそ、今胸を張ってそう言えるのでしょう。素晴らしい御夫婦愛ですね」と心の中で言葉を続けました。
「愛敬」とは、元来「あいぎょう」と読んだものが時代とともに「あいきょう」に変じたそうで、現代では、女性や子どもの愛らしいしぐさや表情を意味する用例として「愛嬌」と書き表す場合が多いようです。
古来、「愛敬」の表記は仏教語の「愛敬(あいぎょう)の相」に由来し、それは仏様の慈愛に満ちた穏やかな表情を言い表しています。「愛」という言葉は仏教では「愛欲(あいよく)」「渇愛(かつあい)」など利己的な欲求を指す場合が多いのですが、「愛敬」の「愛」は自己のみならず他者をも慈しみいたわる思いやりの心や行いを意味します。
古寺をお参りした時など堂内に鎮座する仏像のお顔やお姿に出会ったとき、言葉では言い尽くせぬ有り難さに心洗われる思いで、自然と手を合わせ、仏様を拝んだ経験が皆さんにもあることでしょう。冒頭のAさんの「62年間云々」と言い放った時の清々しく、しかも穏やかな表情は、まさに仏様の「愛敬の相」のように私の目に映り、伴侶生前の良好な夫婦の人間関係とその継続を証明しているかのようでした。
さて、日常における「愛敬」の実践はどうすればいいのでしょうか。笑顔で人に接し、思いやりある優しい言葉を発するという「和顔愛語」を心掛けることだと思っています。某大手ハンバーガー店では、メニューに商品と並んで“スマイル0円”と書かれており、笑顔の接客も“売り”なのだそうです。
仏教ではこれらのことを「無財の布施(財産や金品が無くともできる、人や世の中への施し)」といいます。
「男は度胸、女は愛嬌」などと申しますが、「男は、女は」などと語らず全てを越えて「共に愛敬」で暮らしていきたいものですね。
人は誰でも、毎日を心穏やかに安心して生活することを願っているはずですが、近頃はどうでしょうか。社会を見ても身近なところを見渡しても、あるいはいつの世でもそうかもしれませんが大小の違いや深い浅いはあっても心配や不安の連続であり、なくなることはないのかもしれません。
「安心」この言葉には、何となく心からホッとするような、やすらぎを感じる響きがあります。仏教ではこの言葉を「安心(あんじん)」と読んでおります。意味はどちらも、心がやすらかである状態のことですが、特に仏教では、お釈迦様の教えによって心が常にやすらかであり、迷いや苦しみなどによって、心が動じない穏やかな状態のことを言います。
家族、仕事、老後、病気、環境、お金、死・・・。考えてみると、毎日を心が安らかな状態で生活している人は居るのでしょうか。仮に居たとしても今がそうであるに過ぎません。まさに諸行無常の世の中です。
人間は迷いや苦しみなどの、四苦八苦(しくはっく)の煩悩(ぼんのう)の中で生きていると言いながらも、本当の原因は、知らないうちに自分自身の愚(おろ)かさや欲望が作った妄想が、とらわれや執着の心となって、迷いや苦しみを引き起こしているのかもしれません。お釈迦様は、この迷いや苦しみをのりきるために、「世はまさに無常である。しかし、怠ることなく精進しなさい。」つまり、この世の中は、迷いや苦しみの絶えない、思うようにならない厳しい世界である。しかし、思うようにならないからと言って、無駄に生きてはいけない、生かされていることに感謝し、深く考えをめぐらして、悪事から離れ善事に励み、自分のために生きるのではなく他人のために生きなさい、すると全ての人が「安心(あんじん)」に生きていくことが出来るのですと教えておられます。
このように、人間の迷いや苦しみの原因を取り除いて、全ての人々を「安心(あんじん)」に導くための教えが仏教であると言えます。
ですから、この安心という言葉は「やすらぎ」を感じるのかもしれません。「煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)」、迷いや苦しみは、そのまま悟りにいたる原因となるとも言います。
生活の中で自分の心にある煩悩が、言葉や態度になって飛び出してくることがよくあります。そんな時は、なによりも反省することが大切です。素直な気持ちで「悪いことをしてしまった」と、深く反省出来る自分であれば、少しずつでも確実に「安心(あんじん)」の方から近づいて来てくれるのではないでしょうか。
今、仏像が大変注目されています。昨年行われた興福寺阿修羅像の展覧会には、なん61日間で94万人の方々が訪れるほどの人気があったそうです。また、阿修羅像のファンクラブまであるとの事には更に驚かされてしまいます。この阿修羅像のお顔は何か憂いをたたえているような感じがして、見ているもの心に不思議な変化を与えてくれます。
そんな阿修羅像と並んで人気のある仏像に、東大寺金剛力士像があります。大仏殿に通じる南大門の左右には8メートルを超える二体の金剛力士像が仏敵を追い払わんと鬼気迫る表情で立っております。「太く逞しい腕の筋肉、はちきれそうな胸、呼吸法に習熟したと思われる少し出た腹、風にたなびいて見える裳裾、血管が浮き出て見える脚の姿」。スーパーマンのような逆三角形の体型とは一線を画す、鎌倉時代当時の身体感がよくあらわれているようでとても魅力が感じられる仏像です。
左右の二体の金剛力士像のお顔をよく見てみますと、左の像は口が開き、右の像は閉じているのに気がつきます。これは、阿(あ)は口を開いて発する音声で最初の音、吽(うん)は口を閉じて発する音声で最後の音であり、悉曇(しったん)という文字の最初の字と最後の字を表しており、それが転じて、あらゆるものの初めと終わりを象徴しているのです。
二人の息がぴったりあっている様子をあらわす言葉として「阿吽の呼吸」と表現されることがあります。一つの事を共にする時などの相互の微妙な調子や気持ち、それらがぴったりと一致する時などに使われます。スポーツでいうと野球のピッチャーとキャッチャーの関係がわかりやすいかと思います。キャッチャーは試合の状況を判断してピッチャーにサインを送り、アイコンタクトでお互いの気持ちが一致したところでミットめがけてボールを投げます。たとえそのボールが打たれたとしても後ろで守っている人たちの連携でアウトを地道に積み重ねて勝利を目指していくのです。それは野球に限らず仕事にも又、日常生活などにもいえることで、みんなの気持ちを一つにして物事にあたることこそが「阿吽の呼吸」の実践であり、それはやがて社会の協調や連帯そして発展につながっていくのではないかと私は思っています。
何かを決めたり、行ったりする時、自分は何もしないで他の者にまかせる事を、「あなたまかせ」と表現しますね。実はこの言葉、「身も心も仏の家に投げ入れておまかせすること」をいい、自分の計らいを無くしてしまうことです。
ところで、暑さ寒さも彼岸までといいますが、彼岸とは仏さまの住まわれるあちら側の世界です。これに対して此岸(しがん)といえば、煩悩にさいなまれている私たちのこちらの世界を指します。それを彼岸と言わずに彼方(あなた)、此岸と言わずに此方(こなた)と言っても同じです。今では彼方此方はあっちこっちと言っていますが、仏さまの覚りの世界が彼方(あなた)、私たちの迷いの世界が此方(こなた)といっております。彼方にはあなたまかせにできる仏さまがおり、「あなた」となったようです。「いろは歌」では「有為の奥山きょう越えて」とありますが、有為はこの世ですから、この世を今去り未踏の奥山を越え、無為自然の世界、あの世に来て仏の世界で見てみると、この世のことが「浅き夢みし酔いもせじ」とあまりにもはかなく思えてならないという歌です。彼方と此方とでは随分違う世界ですね。
私たちがいま使っている「あなた」は二人称では君の尊敬語、三人称ではあの人の尊敬語になっていますが、自分以外の人を仏さまと同格と思い、敬って「あなた」と呼ぶことができたらすばらしいことです。
相手の方を尊び敬うのは大切なのですが、「あなたまかせ」がサボル行為の逃げ口上にならぬよう、くれぐれも心したいものです。
本来の「あなたまかせ」は、己の我を捨て去り、すべてを、仏さまにおまかせすることです。そうすることによって仏さまから導かれる安心の世界が開けてくるに違いありません。
本当の「あなたまかせ」ができる人は、慈悲と智慧を具えた菩薩さまに違いありません。あなたの近くにきっとおりますよ。
花咲爺さんや舌切雀などの日本の昔話には、意地悪爺さんや意地悪婆さんが登場します。けれども意地善爺さんとか意地良婆さんという語は聞いたことがありません。意地が悪い、意地を張る、意地を通す、意地がきたない、意地にかかる、意地になる等々、どうも「意地」という言葉にはマイナスのイメージが漂っているように思います。
さて、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情けに棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」とは、夏目漱石の小説『草枕』の冒頭ですが、ここで漱石は、意地を「自分の思いを通そうとする意志の凝り固まった心」の意味を表現し、自分本位の強情を貫き通すと却って心身の自由が束縛され思うままに出来なくなると述べています。
仏教では意地の「意」は六識、六根における意識、意根であって、認識、思考する心を指し、個人存在の中心であるから「地」であると説いています。分かりやすく言うと、個人の存在の全体を支配する心とでもなるでしょうか。ともあれ、私達が日常的に使う意地の意味とは若干ニュアンスが異なります。
ところで、さき程の『草枕』の文章ですが、夏目漱石は、自分本位の強情を貫き通すと窮屈になると述べていますが、読者の皆さんはアレッ?とは思いませんか。最近の世の中は何でもしたい放題、言いたい放題。自分本位で自己中心的な人が増えてきました。おそらく、そのような人達にとっては、意地が通らないと、却って世の中は窮屈だと騒ぐのせしょうね。「世に住むこと二十年にして住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うて居る。喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなる程苦しみも大きい」(同書)と書いた漱石先生も、現代人を観ては苦笑いするに違いない。
あまり慣じみのない仏教語かもしれませんが、仏教語大辞典には「愛情をもって思うこと」「いとしく、ことに心にひかれる」「愛情、恩愛のきずな」とあります。「愛」、「念」・・・それぞれ愛敬、愛想、愛着や念仏、正念などの熟語が紹介されています。愛念とは愛情をもって思うこと。かわいがる。いとしく、ことに心にひかれるという意味になります。
私達は、家族や社会の為に常日頃一生懸命生活し生きております。又、我が子や孫の成長を暖かく見守り、育んでいます。ペットに対しても思いは同じでしょう。
農家の方々は田畑に対して手をかけ、子どもや孫に対するように時間をかけて成長を見守り、作物の収穫を楽しみにしているのではないでしょうか。
ところが、現実の世界や自然界は厳しいものがありますし、愛憎紙一重といわれるように、愛の裏には憎しみの言葉があります。憎しみの気持ちで観てしまうと、全てが悪いイメージになってしまうこともあります。
お釈迦さまから歴代の祖師を経て、道元禅師様に伝わった教えのひとつに「八正道」と呼ばれるものがあり、その中に「不忘念(ふもうねん)」があります。この言葉の意味は、“みほとけに念われていることを知る。仏の子は、起きているときも、寝ているときも、いつも仏さまから見られて、正しく生きるようにと念われて、生かされていることを忘れないように”との教えなのです。
私達は一人ではありません。みほとけにいつも見守って頂いているのです。
目に見えるものだけを大切にする現代社会においてはこうした念は見えてこないのかもしれません。
みほとけは、いつでもどこでも念われているのです。私達もこれまで以上に家族の為に、社会の為に、そして自分自身の為にも、「愛念」の精神で日々生活してまいりましょう。
一つには功(こう)の多少を計り 彼の来所を量る
二つには己が徳行(とくぎょう)の全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って 供に応ず
三つには心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは 貪等(とんとう)を宗とす
四つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事とするは 形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり
五つには成道(じょうどう)の為の故に 今(いま)こ此の食(じき)を受く
曹洞宗では食事を頂く前にこの「五観の偈(ごかんのげ)」を お唱えします。
人間に限らず生きてゆくには食べ物を取らなければなりません。
それは他の命を頂く事に他なりません。その頂戴した命の分まで大切に生きてゆく自覚の為にもこの「五観の偈」を唱えるのです。
人と他の動物の違いはここにあるのではないでしょうか?手を合わせて食事をするネコを見たことはありません。仏壇の前で手を合わせていたサルの話を聞いたことがありますが、感謝していたと言うより、仏壇のお供物を座って食べていたと言うところが真相でしょう。
料理評論家で服部栄養学校の校長をされている服部幸應先生はイギリスの帝王学を学ぶ学校では第一に食事のマナーを大切にするそうです。大人として一番大切な事として食事のマナーを徹底的に教え込むのだそうです。日本では箸の持ち方や食事の作法などがずいぶん乱れてきています。命を頂く食事と考えるならば、給食費を払っているから「いただきます」と感謝しなくていいという親や、外食でお金を払ったから残してもいいと言う考え方は間違っていると思います。その姿勢が箸の持ち方などに表れるのではないでしょうか。
今、日本の輸入食料の6千万tのうち2千万tがゴミとして捨てられていると言う事実です。今世界の人口が70億人達し、こから食料問題が大きくなっていくと思われます。
そのような時代に賞味期限が過ぎた食料を平気で捨てている日本人は世界からどう思われるのでしょうか。
「五観の偈」を子供にも分かり易く「五つのいただきます」としてご紹介します。
ひとつには ひとやものにも 多くのおかげと 感謝して いただきます
ふたつには ふだんの行い ふりかえり 手を合わせ いただきます
みつには みずから正し わがまま言わず おいしく いただきます
よつには よく身を保ち すこやかにと いただきます
いつつには いのちすべてが しあわせなれと 願い込め いただきます
どうぞ感謝の気持ちを忘れずに 食事の前には「いただきます」と唱えましょう
禅の言葉「安心立命(あんじんりゅうみょう)」があります。一般的に「安心立命(あんしんりゅうめい)」と読みます。「立命」の意味は、「天命」の帰する所を知って、心を迷い無く打ち立てることです。元来、「立命(りゅうめい)」は孟子等が関わった「儒教」より出た語句です。禅学大辞典に依れば「儒家の語を禅家が転用したもの」と示されています。従って、「安心立命(あんじんりゅうみょう)」とは、心を安らかにし、身を天命にまかせ、どんな場合でも動じないことです。
ところで、この「心」について禅の書物である『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)』に興味深い内容があります。中国禅宗の祖・菩提(ぼだい)達磨(だるま)様にその弟子・慧(え)可(か)様が教えを乞いました。「私の心はまだ安らかではありません。師よ、お願いです。私の心を安らぎあるものにして下さい。」すると達磨様が、「そうか。ならば、その心を持って来なさい。そうしたら、その心を安らぎの世界へ導いてあげよう。」と言いました。すると慧可様は次のように言いました。「はい。ところがこの心を求めても手に入れることが出来ないのです。」達磨様はこう言いました。「私は慧可の為に安(あん)心(じん)を与え終わった。」
心はつかみどころがないものです。つかみどころがない心にしがみついているから不安が生じるということです。
慧可は人生の根本問題一大事である、「生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)」の四苦を解決し、悟りを得ようと坐禅修行に精進する。が、迷いや思い通りにならぬ自分の中に、焦りや不安が交錯してしまう。そのような時、心を持って来なさいと言われても、「はい、これです。」ともいかない。「不可得安心(ふかとくあんじん)」、つまり安心そして心は手に入れることができないと分かったことが「安心」そのものになっていると達磨様が言いたかったのです。
永平寺を開かれた道元様は坐禅を勧める教え『普勧坐禅儀』の中で、自己中心の計らいをやめ、ましてや仏になろうなどとも考えず、純粋に坐禅修行に打ち込む姿こそが「安心立命」を体得していることに他ならないとお教えです。この自己を見つめる坐禅の心で日頃より感謝と報恩の浄行に目覚め日々精進して参りましょう。
自動車にカーナビが当たり前のようになって久しいですね。ナビの無い車に乗ると、不安で携帯した地図を途中で確認したり、お店や畑仕事をしている人に尋ねたりして、ウロウロしてしまうことがあります。つい最近も、見当違いの場所に案内されて大変でした。
現在では仕事にカーナビは必須、タクシーも標準装備がほとんどです。2010年の少し古い記録ですが、自家用車の装着率は5割を超えているとのことです。
さて、私がカーナビを特に便利だなと感じたところは、どんなに道を間違えても正しい道に誘導してくれる機能です。まるで地獄に仏ですね。また、途中でちょっと寄り道をしたくなって推奨ルートをわざと外しても、元に戻そうと健気に諦めずに声を掛けてくれた時は、あたかも欲望に振り回された「はぐれ者」を正しい道に戻してくれる菩薩様のようでした。
でも、人間が迷うのは道路だけではありません。進学や就職、恋愛など人生の様々な場面で迷い悩みます。
仏教ではその迷いの原因を「煩悩」と云い、自己中心的な「私利私欲」から生み出されるものだと説いています。煩悩は別名「有漏(ウロ)」と云い身体から漏れ出てくる欲望(煩悩)の事を表現しております。つまり煩悩に振り回されている様子を「有漏有漏(ウロウロ)」=「ウロウロ」と表現したんですね。
「ウロウロ」している人は、人間本来の正しいあり方を見失い、欲望のままに振る舞って苦しんでいるのです。その悩みに、カーナビのように正しい道を示してくれるのが「仏の教え」ということです。
皆さん、機会がありましたならば是非とも仏様の教えを聞く場に足を運んでみてください。きっと人生の良きナビゲーションになりますよ。いささか抹香臭いお話もありますが、きっと人生の役に立ついいお話もあります。
仏様の教えなんてつまらないと決めつけて歓楽街で「ウロウロ」していると、怪しい店にナビゲーションされますよ。
山形県と宮城県を結ぶ笹谷街道の峠に、「有耶無耶の関」という所がありますが、ご存知でしょうか。その昔、多くの人々が行きかう街道であり、一休みをしたところでした。現在は新しい道路が出来てしまい、人々に忘れられた道になってしまいました。
有耶無耶の「有」は有(あ)る、「無」は無(な)いということで、あるかないかどちらだろうということを言いますが、現在の私たちは「もやもやしたものがあって、ハッキリとしない」という意味に受けとっている人が多いと思います。
また、「有無を言わせない」というときは、有るのか無いのか相手に判断する隙を与えないということから、「相手が承知しているか承知していないかに関わらず」という時に用いられます。 私たちは日常生活の中で『白黒』『善悪』『生と死』『是と非』etc…というように、ともすると何もかも「両極端などちらかに決めたがり過ぎている」のではないでしょうか。世の中はなんでもはっきりと分別できるものばかりとは言えません。物事の本体・本質には「有る」とも「無い」とも決めつけられないものが多くあります。
仏教ではこのことを「無記(むき)」といっており、お釈迦さまはこのことについて敢えて答えを出しておりません。仏様の智慧により私たちの苦悩が消滅し不安も恐怖もなくなり、豊かな人生を歩むための様々な方法を説いているのが仏教なのです。仏様の教えにそった生き方を学(まね)ぶことによって、物事の道理を体得することができるのです。
太陽が地球や月を照らしてくれているように、仏さまの教えは私達を照らしてくれます。仏さまに照らされている私達はまさしく月が夜道を明るく照らすように、他の人々を明るく照らしてあげることもできるのです。自分一人では輝けない私たちも仏さまの光を受け、時には周りの方から輝きを受けて、自身が他を照らし得ることができるのです。仏さまの光を受けて自分の迷いの道を照らし、さらには自分だけではなく自分が照らして頂いた仏さまの光をもって他を照らして差し上げる。そのような生き方を努めていきたいと思います。
袈裟はお坊さんが修行する時、お経を読む時に衣の上に、左肩から下脇下に掛ける長方形の布の事です。この袈裟という言葉は赤褐色のことをいうカヤーシヤの音写であるとされています。仏教の発祥の地インドは暑い国でありますから白い衣服を着るのが一般的です。しかし出家であるお坊さんは贅沢をしないで、不要となったボロ布を集めて縫い合わせて僧衣としました。もともと使い古した布でありますので色は壊色(えしき)(こわれた色)となり、その色からお坊さんの服がカヤーシヤと呼ばれるようになったとのことです。
袈裟はつなぎ合わせる布地の数によって五条衣(ごじょうえ)、七条衣(しちじょうえ)、九条衣(くじょうえ)となりました。平城京(奈良)や平安京(京都)の住所に「条」がつくのは都を袈裟に見立てて建設したことに由来し、日本をみ仏の教えによって治める願いが込められています。大衣(だいえ)(九条衣)のような大きな袈裟になりますと、つなぎ目もたくさんになってしまうことになります。現在私たち坊さんが使用している袈裟にもたくさんのつなぎ目をつくるのも古い時代からの名残であります。
仏教がインドから伝来し、中国に伝わりますと袈裟を着用するだけでは寒さを防ぎきれなくなり、袈裟の下に中国衣装を重ね着するようになりました。日本に仏教が伝えられますと、その下に和服を重ね着するようになり、現在の日本のお坊さんの姿に定着したと考えられます。
さて、辞書で調べますと「大袈裟」の由来については諸説があり定かではありません。いずれにしても「誇張して言ったり、見せかけたりする有り様、実際の内容とはかけ離れた話や行為」を表す言葉として使われます。同じような意味の言葉には「大風呂敷を広げる」等の言葉があります。
日本は不安定な社会が続いております。年末に行われた選挙。候補者は様々な構想を訴えておりました。「大袈裟」な事にならなければと願うばかりです。
また、私達の日々の生活もお袈裟の本来の意味である「質素・倹約」の心を忘れないように、等身大の生活を営みたいものです。
仕事や勉強、家事などいつものことが面倒くさくなることはありませんか?物事をするのに気が進まず面倒くさい気持ちになることを「億劫」と言います。そんな自分になっていないでしょうか?
億劫は「おくごう」「おっこう」という読みが変化して「おっくう」となりました。「劫」という字は、落語の『寿限無』冒頭に「寿限無寿限無、五劫のすり切れ…」と出てくる、仏教で用いる時間の単位です。諸説ありますが、巨大な岩を百年に一度、薄衣で払拭し、その岩がなくなるまでの時間と言われ、とにかく非常に長い時間を表しています。その五倍、いや億倍ともなれば、気の遠くなるような時間に違いありません。
お経には「?」がつくような距離や時間などを表す単位がよく出てきます。仏教の世界には、私たちの理解の枠を超えたなんとも不可思議な世界ともいえるかもしれません。江戸時代の数学書である『塵劫記』には「不可思議」という1064に相当するというとても常識では考えられない大きな数の位が記されています。これらの単位は、数の多少、時間や距離の長短を象徴的に表しているようです。
百八の煩悩を払うとして撞かれる除夜の鐘。煩悩の数を百八と具体的に示していますが、本当に煩悩の数はそれだけでしょうか。毛や爪が切っても切っても伸びるように、煩悩もまた払っても払っても、私たちの身と心に起こるものです。それこそ一生かかっても全部の煩悩を払うことはできないかもしれません。けれども仏道修行を通して、あるいは日常生活の中で、煩悩を一つづつ滅していく努力を忘れてはなりません。煩悩を滅することばかりでなく、何事にもコツコツと面倒くさがることなく、たとえ長い時間がかかっても取り組んでいくことが大切なのではないでしょうか。面倒だと思わず、あきらめることなく継続して物事に当たりなさい、という意味が「億劫」という言葉には逆説的に込められているように感じます。皆さんも億劫がらずに何かを始めてみてはいかがですか。
「開眼」とは読んで字のごとく、眼を開くと書きます。これは仏壇や新しいお位牌や墓石、あるいは新仏像の「魂入れ」の事を言います。地域によっては「シン入れ」と言われその表現の方が理解しやすいと思います。
「開眼」とは「ほとけの目を開く」ということですが、新しい筆を用いて行います。古くは奈良の東大寺にある大仏様の開眼の際には、インドから、菩提僊那(ぼだいせんな)という僧侶を招いて行われ、今もその時の筆が正倉院の宝物として大切にされているそうです。
「魂を入れる」とも言われますが、「開眼」という言葉の意味を考えると、ほとけ様の目を開くのは誰なのでしょうか。
最近「ぶっちゃけ寺」というテレビ番組が評判のようですが、その中で和尚さんが困った話と言うのがありました。
和尚さんが、葬儀が終わり、初七日忌に伺った時の話です。ほとけ様に、生の寿司が桶で供えられていたので、「ほとけさまには、生(なま)ものは供えないで下さい」と言ったということでした。次の二七日忌に行くと、又寿司桶が供えられているので、「えー」と思って見ると中に折り紙で作った寿司が入っていたので驚きました。子ども達が「おじいちゃんはお寿司が大好きでした。どうしても食べさせたいので折り紙でお寿司を作りました。それでもだめなんですか。」と話す子ども達に何も言えなくなった、とのことです。
仏さまには生ものは供えられない。折り紙のお寿司は食べられない。しかし、理屈を超えた折り紙のお寿司には言葉では言い尽くせない温もりと嬉しさが伝わります。理屈ではない心の響きを感じるとすれば、それを「情」を感じるというものではないでしょうか。人として人の心を感じるのは人だけではないでしょうか。
仏の心を入れる、魂を入れるのは僧侶です。仏の心を伝える僧だからなのです。「開眼(かいげん)」とは仏の眼(まなこ)を開くことです。そこから本当に心を込めるのは拝む人の心にあります。「これが好きだったね。」、「嬉しいかい。」、仏さまを拝む自分がほとけの心になっていると気づかされます。手を合わせて拝むと悲しみや感謝に目覚め、仏さまも私のほとけの心を拝んでいると気づくのです。
「開眼」とはみんなが仏さまになるということです。仏になる教え、それを仏教と言います。
一般的に「覚悟」と言えば「決死の覚悟」のように重大な決意や決心、また「覚悟はいいか!」などと使われるときは心構えとか、諦めの心持ちを意味しています。
しかし、仏教でいう「覚悟」の本来の意味は真理を悟る、真理に目覚めることを意味します。では、「さとり」とは一体何でしょうか。これは、「差」を取ってしまうこと、つまり「差取り」と表現した方が分かりやすいかもしれません。
人間はどうしても物事を対立して捉えがちです。特に、「生と死」に関しては「死」を嫌い「生」が絶対だと考える人が多いのです。しかし仏教では「生」もいのちであり、「死」もまたいのちである捉えます。この「生」と「死」を別物とは考えず、生死の差を取ってしまうこと、つまり「いのちの真相」に気付き、「いのちの真相」を悟り、そのような生死を生き抜くこと、これこそが「覚悟」本来の意味です。
皆さんご存じの明治の俳人、歌人の正岡子規にこの様なお話があります。彼は脊椎カリエスのため、三十歳になる前から死ぬまでがほとんど病床にありましたが、ある日その病床で忽然と気づきました。「余は今迄禅宗の所謂悟りという事を誤解して居た。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(『病牀六尺』)
どんな人間も、死は避けることが出来ない。しかし、必ず死ぬまで生きている。その生をしっかりと受け止め生き抜くこと、正岡子規はそう悟ったのです。
また人間は、この世では絶対に独りでは生きることが出来ない存在です。目には見えない陰の力、「お陰様」によって互いに生かされています。人間に限らず全ての生き物、そして山河大地が互いに結びつき合い差別を超越して大きな命として存在しております。
この大自然を大切にし、互いに支え合いながら「覚悟」を決めて共に生きて行きたいものです。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」
先日、NHKテレビの「その時 歴史が動いた 〜もう一度聞きたい あの人の言葉〜 」を視ていると、久しぶりにこの言葉に出会い感動を覚えました。皆さんもご承知の通り、米沢藩第九代藩主上杉鷹山(ようざん)公が「伝国の辞」と共に遺した名言です。
今回の番組では、惜しくもベスト10位入りはならず11位でした。鷹山公は藩主として、当時疲弊した藩の財政を建て直された名君として語り継がれています。先頃の「有頂天」となったバブル経済崩壊後は、鷹山公の藩政改革に学び、会社経営や組織運営のあり方に、その精神を生かそうとする「鷹山ブーム」が巻き起こっています。
しかしながら、実際には、「言うは易し、行うは難し」であり、さらには、それらを遠因と思えるような事件・事故が多発し、そればかりか環境破壊や、格差拡大などが生じているような観さえあります。
では、一体どうしたら良いのでしょうか。しっかりと原因を究明することはもちろんの事、各自が責任転嫁や先送りすることなく、きちんと心底から反省し、確固とした信念を持って対応することが肝要であると思います。
さて、「金輪際(こんりんざい)とは、仏教の世界観では、大地の下にある三つの層、下から風輪(ふうりん)、水輪(すいりん)、金輪(こんりん)があり、さらにそれに虚空輪(こくうりん)を加えると四輪となり、それらが、この世界の大地や山々、江海をささえると考えられています。金輪上の一角に住む私達にとっては「金輪際」が真の底であるということから、そこに誓って「金輪際、悪いことはしません。」など、打消しの語を伴って「絶対に〜しない」「とことんまで〜しない」などと、とことんまで、底の底まで、断じてなどの意味で使われています。
お釈迦様がお悟りを開き、成道(じょうどう)される時に、坐禅したところを金剛座と言いますが、これは地の最低の基層にある金輪(金剛輪)が地面し現出したものと考えられています。
これからも、しっかりと、「金輪際」に「誓願」(誓いと願い)を立てて、オダたず、こころ豊かな日々の生活を送るよう「精進」してまいりたいものだと思います。
先日、何となしにテレビを見てた時、歌手の藤井フミヤさんが「川に架かる橋の上に立って、流れてくる水を眺め、また流れ去る水を眺めるのが楽しい。立って居るところがまさに現在であると感じる・・・。」と話をしていた。私は思わず中学校の古文の授業で習った鴨長明(かものちょうめい)の作である「方丈記」の一節である「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」を思い出しました。
藤井さんが「流れてくる水」と表現したのが“未来”であり、「流れ去る水」と表現したのが“過去”、そして立って居るところが“現在”であると言いたかったのかもしれません。ところで、過去・現在・未来を改めて考えてみると、点と点で結びついておりますが、現在という時間はずっとあるものではありません。絶えず動いているのです。例えば、「アッ」と発声してみてください。この「あっ」と発した言葉が自分自身の耳で聞こえるまでにも時間が過ぎ、「アッ」と言った声を耳で聞いた時には、既に発声した時は過去の事になっているのです。現在や今というものが一瞬一瞬であることを思い知らされます。この世の中に存在する生命の営みや生滅をみても過去・現在・未来の中で時間が過ぎ、まさに「諸行は無常である」と感じざるをえません。
仏教では過去・現在・未来のことを三世(サンゼ)といい、三世にはそれぞれいろいろな仏さまがおられる。南無三世諸仏(ナムサンゼショブツ)とお唱えすることによって私たちを見守りお救いくださるのといわれます。曹洞宗には「修証義」(シュショウギ)という経典があり、その第5章「行持報恩(ぎょうじほうおん)」のなかに「過去、現在、未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり」とあります。私達の御先祖様方はお釈迦様となり私達をお守りくださいます。私達は過去の諸仏、現在の諸仏、そして未来の諸仏に感謝をし、現在の今を生きる一瞬一瞬を大切に生きることを心がけたいと思います。そのことが、「まごころに生きる」ことであり、ひいては明るい社会をきづくことになるものと思います。
皆さんはお寺の玄関を入ると「脚下照顧」と書かれた札を見かけたことがあると思います。これは、禅の「脚下を照顧せよ」という言葉で、「自分の行いをよく見なさい。」または「自分を見失ってはいけない。」という意味があり、”自分の足もとをよく見なさい。”転じて「履物を揃えて脱ぎなさい。」と教えているのです。
よそのお宅を訪れたとき、玄関に履物が揃っている家は気持ちの良いものです。そのような家の人は、心も落ち着いていて仲良くそろった家と感じます。反対に履物がばらばらに脱ぎ捨てられていると、その家の人は落ち着きのない人達なのだな、とつい思ってしまうことがあります。家ばかりではなく、体育館や公民館などの公共施設のトイレなどで、ばらばらに脱がれたスリッパを見られた経験はどなたにもあると思います。どんなに忙しい時でも履物をきれいに揃えて脱ぐだけの心のゆとりを持ちたいものです。心にゆとりが出来ると一事が万事で、戸の開閉にも節度が生まれ、挨拶の仕方や歩き方も自然に整ってきますし、それに従って心に落ち着きが出てきます。心が落ち着くと不思議なことに、素直なものの考え方や正しい判断力が備わってきます。
曹洞宗の開祖である道元禅師様は、「仏道を習うというは、自己を習うなり」と申されました。人は、その人のやっていることを見れば、その人のことが良くわかるといいますが、他人ではなく自分自身のやっていることを見れば、自分もわかるのではないでしょうか。履物を乱しておいたら、乱しておいた自分がそこにいるのです。揃えておいたら、揃えておいた自分がそこにいます。さらに道元禅師様は「修せざるには現れず、修せざるには得ることなし」と申されました。つまり「実行しなければ何もならない、知っているだけではだめだ」ということなのです。例えばトイレのスリッパは、回れ右して向こう向きに脱ぎますが、これは後から入る人を思いやる心の現れなのです。しかし、後から入る人など知ったことか、入る人が自分で直せばよいなどと思っている人は、自分さえ良ければ人のことなどはどうでも良いという利己的な生き方になってしまうどころか、ひいては子孫のことなど何とも思わない人になってしまいます。
私たちは子孫のためにも良い先祖でありたいものです。社会からも人からも感謝される人となるためには、尊いお釈迦様の教えを聞いたり学んだりしたことを実行しなければなりません。そして一度やったらそれで終わり、ということではなく、一生続けて行くことが「人生の修行」なのです。トイレの中は誰が見ているというわけではありませんが、見えないところでも後から入る人のために、向こう向きで脱いでほしいものです。
私たち禅宗の坐禅は心を整える修行です。その坐禅の心で履物を揃えると心もそろいます。そして自分の履物を揃えておくと、履くときに心が乱れません。乱れないから「平常心」で居られるのです。「平常心」とは「普段の心」という意味ですが、ただの普段の心ではなく、「カラッとした心」、「すがすがしい心」のことを言うのです。履物を揃えて心がそろい、履くときに乱れないからすがすがしく居られるのです。
世は無常です。生きている方はいつかは亡くなりますし、出会えば必ず別れが来ます。無常とはとどまらない、変わってしまうということ。だからこそ一時一時が大事で、一日一日を大切に生きたいものです。しかし、考えてみますと変わるということは「変えられる」ということでもあります。だから「生きているということは、自分を変えられる」ということではないでしょうか。でもどう変えるかは「私」の今日只今の生き方にかかってきます。「一日一日を大切に」とは「すがすがしい心」で生活をするということです。たかだか履物を揃えるだけのことですが、より良い自分になるための、より良き生活をするための第一歩であります。ぜひ実行していただきたいものです。
もし、隣の方の履物が乱れていたらそっと直してあげましょう。大切な心遣いではないでしょうか。
玄関、皆さんご存じの言葉ですよね。実は仏教語なのです。本来は、玄妙な道に入る関門…奥深い仏道への入口”の意味を表わすのです。
いわば仏教(道)や禅門に入る際には、身と心を正して一歩を進める大事なところを意味するものなのです。
私達は他家を訪問して玄関に入りますと必ず挨拶をいたします。この挨拶も実は仏教語なのです。
禅宗では相手の僧と問答をして悟りの程度を知ることを挨拶といいました。
今、日常生活の中で、人と接するとき、胸襟を開いてという言葉の通り、相手の心の玄関を開いてみないと、心と心のふれあいは生まれて来ないのではないでしょうか。そのことをいいかげんにしてしまうと、人間関係やコミュニケーションがおろそかになったり、日常生活それ自体をもいいかげんにしてしまうことにもなりかねません。
どうですか、このやりとりをする入口である玄関ですが、とても大切な場所なのですね。
私の生家は、敷居がある引戸式の玄関でした。子供の時その敷居を踏んだ時よく怒られたものです。一家の主人の頭と思え…と。私は注意して出入りをしたことを覚えています。
今、私が住職をしている地域では、旧家がまだまだ残っております。
お弔いやご供養の時にお伺いをする時には、玄関から入らずに、床の間、祭壇の飾ってある部屋の縁側から入らせて頂いておりますが、これはその家の主人(喪主や供養主)から、事前に仏事を依頼されており、玄関での挨拶を必要としないからだ、などといわれます。それは、仏事の導師を勤める者だからということなのでしょう。このようなことから縁側から出入りをすることになったものと思われます。
現在の建築では、敷居のないドア式の玄関や、縁側のないお宅が増えてまいりました。もう、現代風の玄関から入らせてもらうしかありませんね。
普段何気なく出入りしている玄関ですが本来の意味を思い出し、ちょっとだけでも身心を正してみませんか。
言うは易し、行うは難しですが、あらためて仏道修行の何たるかを問いたいと思っている和尚のこの頃です。
だって仏様の教えはほとけになる為の実践のおしえですから。
数年前になりますが、不覚にも骨折してしまいました。今流行のスノーボードでです。 息子にせがまれて、近くのスキー場へ行き、その日はお通夜があったので早めに切り上げ帰ろうとしたとき、「お父さんもう一回だけ」という息子のおねだりに「じゃあもう一回行くか!」。それが運の尽き。アッと思った瞬間、左肩から「ばっきっ!」と鈍い音。しばらくその場にうずくまっていましたが、大げさに騒ぐと子供達がパニックになると思い、ゆっくりと立ち上がり、「さあ帰るぞ!」。左手をかばいながら何とか右手だけで運転し、そのまま整形外科へ。レントゲンを見た医者は「ああ・・・・左鎖骨折れてるね・・こりゃ手術だ」。臆病者の私は「先生・・それは困る。なんとか手術以外で治す手だてはないのですか」と懇願。しばらく考え込んでいた医者は「ん〜〜〜〜ん。じゃ昔やった方法でやってみるか。じゃちょっと体押さえてて!」そのまま数人の看護師さんに押さえられ、ぐいっと。折れて離れていた鎖骨は先生の大きな手と指で元の位置へ。「ぎゃあ〜〜」その痛いのなんのって。遠のいていく意識の中、目に飛び込んできたのが診療室の壁に掲げられた「鬼手仏心」の額。
「鬼手仏心」(きしゅぶっしん)。外科手術は体を切り開き鬼のように残酷に見えるが、患者を救いたい仏のような慈悲心に基づいているということ(広辞苑)。医者が手術をするとき、むごくみえるが心は仏のようであること(日本語大辞典)。どの仏典から出た言葉か諸説があってはっきりしません。外科や整形外科の病院の診療室ではよく見かける言葉ですね。
最近ではこの言葉、色々な場面で使われています。ちょっと前になりますが、平成10年に首相に就任した小渕恵三氏。巨額の不良債権にあえぐ金融不況のただなかで、「厳しい手と愛に満ちた心で次の時代を築く決意」所信表明演説をしました。あれから10年、現在の世界的な金融危機にも通用する言葉ですね。今、昔ほど悪さをするとだれかれかまわず本気で叱ってくれる近所の怖いおじさんがいなくなったような気がします。大きな心、仏様の慈悲の心、そして鬼の様な迫力で真剣に向き合う事が少なくなった社会、事なかれ主義で表面だけで付き合う社会には本当の人と人との絆はあるのでしょうか?
「鬼手仏心」・・・政治、経済、そして教育にせよ大変な時代ほど、ものを成し遂げるとき、人を動かすときには「時には鬼のような表情(手法)で、しかしながら仏の心をもって対処していくことが必要である」そういう事を私達に教えているような気がします。
ちなみに、先の整形外科の先生、私の骨折から数週間後、自分自身が骨折をしてしまいました。そこで一言「和尚さん・・・骨折ってやっぱり痛いね」
「禅の思想辞典」によりますと、「功徳」とは、一般には「神仏による御利益あるいは恩恵」を意味するとあります。しかし、「功徳」にはその他にもさまざまな意味があります。まず優れた性質あるいは能力という意味があり、原語(サンスクリット語)はgunaである。又、幸福をもたらす原因となる良い行いや、その良い行為によってもたらされる結果、果報、利益という意味もあります。
つまり果報や利益をもたらすにはその原因となるものがあり、それを「功徳」というのです。
さて、皆さんは「惜しまれて早く送られますか。あるいは疎まれて長生きをしますか。」と聞かれましたならばどちらを選ばれますか。
「惜しまれて早く送られたい」と答えるなら少し寂しい。老いの苦とは当人だけではなくて周囲にとっても苦であるかもしれません。従って介護する側もされる側も辛いものと言ってよいのではないでしょうか。その意味でどうも二者択一による答えはないようです。惜しまれようと、疎まれようとどう老いていくか、どう耐えることができるかなのでしょう。
あるおばあさんが亡くなりました。病院のベッドの枕元から、おばあさんから子供夫婦への手紙が見つかりました。「ありがとう、お世話になった、とてもうれしかった。この喜びをおじいさんに届けようと思うが、いつ逝ったらいいか分からない。あなた方も仲良く長生きしてくださいね、本当にありがとう。」この感謝の言葉に子供夫婦は驚いたといいます。
本来、人は誰もが孤独な世界を持っているのです。その寂しさを受け止め、大切にしてくれたことへの嬉しさと、一緒に耐えてくれた子供夫婦への感謝の言葉が「ありがとう」なのですが、私にはこの言葉の持っている重みを十分感じることができました。
私達人間の持つ優しさとはどこから来るのでしょうか。喜びも悲しみも自分の痛みのように感じるからではないでしょうか。その人間性を「功徳」というなら、「功徳」とは授かるのではなく、人間の持つ優しさこそが果報、利益を生みだす最大のものと言えます。
最近テレビや新聞などのマスコミによく話題とされる言葉に「無縁社会」があります。皆様もいろいろなところで聞かれることがあると思います。この「無縁社会」なる言葉は、いわゆる高度経済成長期にはなかったのですが、バブル経済がはじけ、特に平成になってからよく耳にするようになったものです。考えてみると、高度経済成長期とバブル経済崩壊後では私達の人々との交流、言ってみればコミュニケーションのとり方が大きく違ってきているのではないでしょうか。
ところで皆様方は日頃、どのような人と交流(コミュニケーション)をとっていますか。私達の社会環境を考えると2つのわけ方があります。一つは有縁社会であり、もう一つは地縁社会です。有縁社会とは、先祖から子孫、親戚であり、一方地縁社会とは、住まいが、働く職場が、学校が同じなど、地域・場所や時間を共有する人同士の社会です。
縁につながる言葉として「縁は異なもの味なもの」「縁は知れぬもの」「何事も縁」などがあります。仏教の考え方は、今日は一緒でも明日は離れてしまう可能性があるという「総ての物事は常ならず」が基本となっています。
夫婦も親子も深い縁で結ばれています。だからこそ、不思議な縁でこの世で夫婦となったからには、あの世でも一緒になれるように、縁を大切にし、亡くなってあの世に行っても、二人は再びめぐり逢い、一枚の蓮の葉に、夫婦で身を寄せて過ごすという意味のことわざに、「蓮の台の半座を分かつ」「一つ蓮の縁」などといっていわば理想としているのでしょう。身の回りの神社仏閣には、縁結びのおみくじや、絵馬をたくさん目にすることがあります。
結縁とは因縁を結ぶことであり、仏様、如来様、菩薩様から結ぶこともあれば、衆生(私達)のほうから結ぶこともあります。衆生を救わんとする仏様と、仏道修行をしようとする私達(衆生)が一つに結ばれたとき、未来の成仏得道が約束されるというのです。
仏教の言葉に「我慢」という言葉があります。現代では「辛抱すること」「耐え忍ぶこと」といった意味になり、「あの人は本当に我慢強い人だな」と言えばプラスのイメージになるかと思います。ところが本来仏教の世界では「我慢」とは思い上がりという意味であり、貪・瞋・痴・慢(とんじんちまん)という四大煩悩のひとつに数えられていました。ですから、仏教のなかでは我慢強い人とは自分に自信を持って我を押し通すちょっと困った人のことでした。そしてこういった我を張る状況をさして「頑張る」という言葉もできたようです。
仏教語に限ったことではありませんが、言葉は生きものですから時代とともに意味する内容が変化していくことがあります。元々の意味と正反対の意味で使われていることも珍しくありません。我慢の意味が変化していったのも我慢という煩悩を戒める際に「これは我慢という煩悩だ。いけない、こらえよう。我慢、我慢だ。」というような使われ方を長年しているうちに、忍耐や辛抱と同義語のように扱われるようになっていったのではないでしょうか。
私たちの心の中には「慢心」という煩悩が常に存在し、何人も逃れることは出来ません。だからこそ常に相手を気遣い、自分自身を振り返ることが大切なのです。これこそが現代の「我慢の心」ではないでしょうか。お互いが気持ちよく生活できる地域社会を築きたいものですね。
茶道では、挨拶をする時などに扇子が使われる。扇子を膝の前に置くことで、自分の領域と相手の領域を区別し謙虚な気持ちを示しながら相手を敬い、改まった気持ちで挨拶をしているということを意味している。相手との「境界」、境目を扇子一つで表現しているのである。私は茶道をかじった程度だが、最初に習った作法が扇子の扱い方であり、大切なことなのだと教わった。一方、仏教語にも「境界」がある。境目という意味だけではなく、力が及ぶ範囲や報いとして得られた境遇、置かれた状況を意味する。
世の中争いが絶えない。それぞれに主義主張があるからだ。主張は良いが、それが相手に対するただの悪口になってしまっては困る。人の悪口や嫌味を言う人は、相手の事が気に入らなかったり羨ましかったり妬ましかったり、仏教で言う処の貪(むさぼり)瞋(怒り)痴(愚痴)の心から発生している。貪りの心から愚痴の心がおこり、愚痴の心あるところには必ず怒りの心がある。自分の境遇に不満を抱き、その愚痴を相手にぶつける。そんな事をしたってなんの解決にもならない。羨ましいと思うのなら自分もそうなれるように努力するしかない。努力する姿に周りが感心してあの人にだったら力を貸してもいいと人々の協力を得られる。努力の報いが「境界」として反映されていくのではなかろうか。そうは頭でわかってはいるが、体現するのは困難だ。しかし、頭で理解しているかいないかでは大分違うと思う。
「自分の畑の草を取らず、他人の畑の雑草を笑う。自己の至らざるを顧みず他人を誹謗する者不信仰という。」仏教問答の一節だ。自分と他人の置かれた状況、「境界」を把握して物事に臨まなければ、ただの嫌味な人、器の小さな人になってしまう。「境界」を越えて踏み込んでいくと争いや揉め事が起きてしまうのだろう。いつでも心に扇子を置いて人と接したい。
最近、とても対照的なお葬儀を経験しました。一人は95才の母。病室に子供や孫が集まり、賑やかな一時を過ごした直後に旅立たれた方。もう一人は59才独身男性。家族、親戚が誰一人側にいることなく、一人で旅立たれました。「臨終」にはそれぞれの物語がある、としみじみ感じ入りました。 「何時何分ご臨終です」
私自身、臨終に立ち会った経験は少ないのですが、確か祖母が亡くなった時、主治医は時計を見ながらそう告げた事を覚えています。今の病院で、どの様な告げ方をしているのかよく分かりませんが、いずれにしても、それは看取る方々にとって、とても静謐(せいひつ)で厳粛な瞬間です。
一般的に「臨終」といわれる言葉は、正確には臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語で阿弥陀経という経典に出ている仏教語です。「臨命」とはまさに命が終わらんとする直前、「終時」とは命の終わりの事です。
古今東西、どの宗教も死に至るプロセスはとても重要視されました。おそらく宗教のほとんどはそこを中心に発生し、発展してきたと言っても過言ではないでしょう。エジプトやチベットには同名の「死者の書」があり、日本では源信という方が著された「往生要集」という書物によって、臨終の作法が大成され、日本人の死生観に多大な影響を与えました。また、死は死だけに終わらず、死後の生をも想定しています。「陀仏来迎図」や「地獄極楽図」等に描かれている死後世界などはその一例でしょう。
超高齢多死社会を迎えた日本では、「質の高い死」「緩和ケアの在り方」「安楽死」等、死に関する話題が、医療だけでなく、宗教や哲学をも巻き込んで大きな議論となっております。 さあ、あなたはどのような「臨終」を迎えたいと願いますか?
「死に様(ざま)は、生き様(ざま)」という言葉があります。
死の方から人間の生き方を考える、これはとても大切な事だと思います。