生活の中の仏教語

生活の中の仏教語


不惜身命

若貴ブームの相撲界にあって、かつて兄弟が切磋琢磨(せっさたくま)し互いにその技量を伸ばし最後は横綱まで上り詰めた花田兄弟。弟の花田光司こと貴乃花が横綱昇進の際に「横綱の名を汚さぬよう、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神で相撲道に不惜身命(ふしゃくしんみょう)を貫きます。」と口にして、広く世間に知られるようになった。不惜身命(ふしゃくしんみょう)とはいのち身命を惜しまず・・・全てを投げ打って相撲道に専念する意気込みを表現したのであろう。相撲も仏教に由来した言葉であるがここでは触れずにおく。

「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」とは仏道を修めるにはみずからの身命(いのち)をもかえりみないということであり、そのような態度を言っている。かの有名な達磨(だるま)大師(インドから中国に禅を伝えた)に弟子入りを懇願(こんがん)した慧可(えか)大師は再三断られ、大雪の中その教えを請い自身の決意を示すために己の腕を切り落とし達磨(だるま)大師に差し出したという。これは身命(いのち)を惜しまず全身全霊でその意気込みを表したものである。

大本山永平寺(えいへいじ)を開かれた道元(どうげん)禅師さまは『閑(いたず)らに 過(すご)す月日(つきひ)は 多けれど 道(みち)をもとむる 時(とき)ぞすくなき』という句を詠(よ)まれている。その意味は「毎日の生活を、閑(しず)かにふりかえってみよう。それは実に、空しい日おくりの、くり返しといってよい。仏の教えに適(かな)い、まっしぐらに、成仏(じょうぶつ)(人間完成)への道を歩むことは、人と生まれたもののつとめである。ところが、どういうものか、自分の欲望のみにふりまわされて、その使命を怠(おこた)り、ほんとうの生き方を、すすんで求め励むことをしないでいる。」(『草の葉』―道元禅師和歌集― 大山興隆著)

これは人が人として人の歩むべき、ほんとうの道を実践することの難しさ、そして、一日一日の尊さを示したものである。それでは、ただ一度の人生を生きている私たちはどう生きれば良いのか?命を懸けてまで伝えられてきた仏さまの教えとは何か?

私達の人生も不惜身命(ふしゃくしんみょう)を貫いていきたいものです。

彼岸(ひがん)

彼岸というと、春のお彼岸と秋のお彼岸の墓参りや、「暑さ寒さも彼岸まで」といった言葉で使われていることが多いでしょうが、実は仏教では深い意味があるのです。

多くの方々に知られている「摩訶般若波羅蜜多心経」の『波羅蜜多(はらみった)』の部分は古代インド語(サンスクリット語)の「パーラミター(またはパーラミー)」という言葉であり、中国や日本では「彼岸に到る(到彼岸)」や「度」(“ど”、わたす)と訳されており、彼岸は人々が欲や煩悩から解放された世界を表しているのです。

彼岸に対して此岸(しがん)という言葉があります。此岸は私たちの住んでいる世界のことで、欲や煩悩に囚(とら)われている世界のあり方なのです。そのためにさまざまな苦悩を抱き、苦しみに耐え忍ばねばならない世界でもあります。ちなみにこの此岸はサンスクリット語では「サハー」といい、「忍土」や「娑婆」と訳されます。俗に言われる「シャバ」というのはこの言葉が由来です。  

ところで、なぜ春彼岸と秋彼岸にお墓参りをするのでしょうか。

一説によりますと、春分の日と秋分の日は一日の昼と夜の長さが同じで、太陽が真東から昇り真西に沈む自然現象の様子が、お釈迦様が説かれた右にも左にも偏らず偏見を持たないという「中道」の教えと重なり合って、仏教の中に取り込まれていったとのことです。

彼岸のお墓参りはご先祖様へ感謝をすると共に、私たちが此岸の世界を生きるにあたって、お釈迦様の説かれた教えを大事にしていくことを確認する機会にして頂ければと思います。

彼岸になっちゃたー

暑い夏が過ぎて、周囲を見渡すともう秋の気配が感じられます。その秋にもいろんな秋がありますね。

「スポーツの秋」、「食欲の秋」、「収穫の秋」などなど。そして「秋のお彼岸」、お墓参りです。ご先祖様にどんなお話をされますか。

ところで「彼岸」という言葉は、季節の表現として定着していますが、もともとは、仏教の言葉で「あの世(悟りの世界)」を意味します。ちなみにこの世は「此岸(しがん・迷いの世界)」と言います。「生き死に」を表すこの表現には、なにやら深い意味がありそうですね。今回はこの「彼岸」について御説明をいたしましょう。

まず、仏教の意味から始めます。修行僧(僧侶)は「悟り(彼岸)」を願って生活をいたします。そのために必要な「行」を「六波羅蜜(ロクハラミツ)」という6つのポイントにまとめました。

先ず、見返りを求めることの無い施し(布施)。戒めを保つ生活(持戒)。耐え忍び、更に不条理を許す広い心(忍辱)、絶え間ない努力(精進)、落ち着いた気持ち(禅定)、正しく理解する力(智慧)。以上の6つです。

修行僧(僧侶)はこの「六波羅蜜」を柱として保ち日常生活を「行(修行)」い、「悟り」を得られるよう願うのです。

さて、四季に彩られる日本において、農耕行事の区切りとなる「春・秋」の彼岸は、自然の恵みに対する「感謝」と「畏敬」で迎えられます。「感謝」と「畏敬」はすなわち日常的な人間の計らい(欲)を離れることです。今では少なくなりましたが、集落を挙げての「祭り」には「感謝」と「畏敬」を具体的に表す「行」の意味があります。

農耕で支えられる生活では、相手は人間の計らいを越えた大自然です。雨の量に一喜一憂し、風の様子に不安を感じ、熱さや寒さに運命を任せつつ、それでなお、「実り」を願い「収穫の秋」に臨みます。飢饉や飢餓に苦しむ時代においては、正に純粋に「生きる」ということと直結していました。当時の人々の願いはどれ程のものだったでしょう。現代の日本においては、飽食の時代などといわれ、多くの人々にとっては想像できないかもしれませんが、今の世界においても飢餓に苦しむ多くの人々がいることを忘れてはなりませんし、又日本においてもそのような方がおられることに心が痛みます。

『豊作を奢らず感謝をし(布施)、不作であっても腐らず(忍辱)、田畑の手入れを怠らず(精進)、正しく現実を受け容れてうろたえず(禅定)、自然との調和を大切にし良き伝統や伝承を尊重し(持戒)、正しい判断をする(智慧)。』と言い換えをすることはどうでしょうか。

農耕に従事することは、「実り」を求めて自然と向き合うことであり、あたかも修行僧が「悟り」の世界を求める「行」とも言えます。

曹洞宗宗祖である「道元禅師」は「仏道修行」とは「自己をならふ(習う)也」と教示されておられ、さらには「万法に(大自然)証せらるる(身を任す)也」とも申されます。

私たちの予想の及ばないこの大自然の中で、何が出来て何が出来ないのか、何に挫折したか、その原因は何か・・・。私は、「悟り」という「結果」を求めることも大事ですが、それ以上にその修行(体験)を通して新たな自分と向き合うことが大切だと思います。

皆さまにも「願い」があり、そのための「行」をお持ちでしたら、その「行」を通してどんなことが分かったか振り返っては如何でしょう。

その振り返りをするポイントを、昼夜半々となる「中日」の前後3日間としたのが「彼岸」です。地球の営みも一年の丁度分岐点です。この大自然を感じ、「証せられる」一週間に、自らの生活が「行」としてはどうだったか、頭を掻きながらご先祖様にお話してみてください。

ちなみに石巻地方の某小学校では、「お中日」が運動会です。試されるのは競技に一生懸命な子どもたちじゃなくて、大人たちなのかもしれません。

微妙 (びみょう・みみょう)

「清武が右足張り開幕出場は微妙」

これは平成29年(2017)2月21日付の新聞スポーツ欄の見出しである。

清武とはサッカーでドイツやスペインのリーグで活躍し、今年からJ1セレッソ大阪に所属の日本を代表する清武弘嗣選手のことである。

結局4日後の開幕戦には間に合わず欠場し、チームはジュビロ磐田と引き分けた。

さて、この時の清武選手は怪我の具合により試合に出られるかどうかの瀬戸際であった事がわかる。この場合の「微妙(びみょう)」とはどちらになるか分からず、判断が付きにくい事で、日常よく使われるケースではないでしょうか。

「音程が微妙に変化する」「微妙な心のすれ違い」「両国の関係は微妙な段階にある」とか、また女子高生などが会話で、「ねえあの人キムタクに似てない?」「えっ。ビミョー」などである。 現代で使われる一般的意味は、「小さくて気がつきにくい。とらえにくい。こまかい。多少。」などであり、時には真逆の意味で使われることもある。

「微妙」は本来仏教用語であり、お経の中では「みみょう」と読み、「はかりしれぬほど深くてみごとな。すぐれてみごとなこと。いうにいわれない不思議さ。」のことを表現する。 文学でも夏目漱石の「吾輩は猫である」に「空に美しい天女が現われ、此の世では聞かれぬ程の微妙な音楽を奏し出した」等がそれである。

農作物を栽培するにしても、「微妙」な温度調節や水の管理などが作物の出来の善し悪しに関わってくるといわれる。日本の農業は世界に秀でる技術を持っていると聞く。TPPの事や諸外国からの圧力など様々な問題が山積する昨今であるが、是非農家の方々には日本人の持つ微妙(みみょう)なる繊細さを生かし、私たちにおいしさの笑顔を届けていただきたいと思う。

麻三斤(まさんぎん)

行茶の次いで、老師より「ボランティアとは仏様の言葉で何というか?」と問われ、即座に応答することが出来なかった。困った顔をしていると「ならば、もっと行を積んでからでも遅くはあるまい。」と老師は言葉を続けられ、お茶をスーッと飲干された。

さて3年前、ここ角田市長泉寺を会場として、国際的禅研修道場「第七回・曹洞宗宗立専門僧堂」が開単された(修行道場が開かれた)。男僧尼僧合せて約30名の海外僧、約20名の日本僧が結集し、3か月に亘る安居修行を行った。その折にも老師よりご指導を賜り、私が身の回りのお世話をしていた時のことである。この腰紐も大分傷んだと言ってポイッと屑籠に捨てられた。捨てるような腰紐をわざわざして来ることはない。私はハッとして屑籠から腰紐を拾い上げ、頂戴してもよろしいでしょうかと懇願した。すると、捨てた物だから好きにしろの返事。今にも擦り切れる腰紐を私のために与えようと老師は持参されたのである。それは私の生涯の宝物となり、座右にあって私を毎日策励(叱咤激励)している。

ここで話は中国に飛ぶ。昔、雲門宗の僧・洞山守初(910〜990)に1人の僧が問うた。「如何なるか、是れ仏。」すると、洞山は、「麻三斤。」と答えたのである。

「斤」とは重さの単位で、当時の1斤は約600g。「三斤」だから約1,800gとなり、僧が着用する御袈裟1肩分(1着分)の麻の材料となる。「どんなものが仏でしょうか?」という僧の問いに、洞山は手元にあった麻三斤を取り、「これだよ、これ!」と示されたのである。

すなわち、老師から頂いたボロ腰紐も私への「麻三斤」。また、ボランティアの本質をつかれた「ボランティアとは仏様の言葉でなんというか?」の語も「麻三斤」。いずれも、己を抜きにしてはたどり着かない、主体性不在を洞察された老師からの策励であった。

もったいない―その仏教的意義―

仏教で言う「戒」は、禁止命令ではありません。自らを律して行くための心がけ、努力目標という意味です。戒には、五戒、八斎戒、十善戒などの種類がありますが、その第一に不殺生戒があります。仏教で説く「不殺生戒」とは、「殺すな!」という命令ではなく、「私は生き物の命を奪わぬよう、努力していきます」という誓いなのです。

私達人間も食物連鎖の中で生きていますから、他の生き物を食することでしか生きていけません。だからこそ、無益な殺生は行わない。生きるために他の生き物の命を戴くからには、感謝の心で戴き無駄にしない。物を大切に使い、生かし切ることを心がけ、今という時を大切にし、無駄にしてはいけないということです。ですから修行道場などでは「時間の無駄使いは、時間の殺生」という言葉が雲水(修行僧)を戒めたりします。

私達が日常使う言葉に置き換えると、「もったいない」という教えのことです。

平成16年、ケニア共和国環境副大臣のワンガリ・マータイさんはノーベル平和賞を受賞しました。その翌年2月、マータイさんはニューヨークの国連本部で開かれた「国連婦人地位向上委員会」での演説の中で、「もったいない」という言葉の持つ重要性を訴えました。以前来日した際に日本語の「もったいない」という言葉を知ったと話し、「『もったいない』キャンペーンを展開し、資源を有効に利用しましょう」と訴えました。

外国の方が日本に来て「もったいない」という言葉に感動し、国連の場で世界に向けてその言葉を発信しました。一方、日本の私たちはマータイさんほどに「もったいない」という言葉とその心を大切にしているでしょうか?。今の日本社会では「もったいない」という言葉は死語になりつつある、と嘆いているエッセイを読んだことがあります。時代が変わっても、教えるべきこと、伝えるべきことは変わらないと思います。それを怠ったままでは、我々の子孫は物を粗末にし、地球を粗末にしていくでしょう。

国連の場から世界に発信された「もったいない」というメッセージ。それは仏教で説く不殺生戒の教えでもあるのです。我々日本人が率先してこの言葉の意味を見直し、世界中に「もったいない」というメッセージを発信し、物の命を大切にし地球を大切にしていきたいものです。

諸行無常

「祇園精舎(ぎおしょうじゃん)の鐘の声、諸行無常の響きあり」とは平家物語の冒頭の有名な句ですが、お釈迦さまは諸行無常とは、「この世は無常である」と説き、生あるものは必ず滅び何一つとして変わらないものは無いと言っておられます。即ちあらゆる現象は変化して止むことがない、人間の存在もそうであり、つくられたものはすべて瞬時たりとも同一のままではないのであり、物事は総て(すべ)時間と共に移り変わるということです。

私達も同様に、年月と共に変化し、いわば成長し老いて行きます。人生という荒波の中で紆余曲折(うよきょくせつ)を経て生きて行くのです。そのような人生の中で私達は多くの人々と出会い、多くの事を学びそれを糧(かて)として、豊かな満足のできる人生を歩みたいものです。そこには必ず感謝の気持ちが生まれることでしょう。また、尊いことだと思います。

とかく、現代社会は忙しいことからストレスが溜まりやすいものです。先日の新聞で、現代の病気の要因はストレスに起因するものが多いという指摘がありました。よく風邪は万病の元と言いますが、現代ではストレスも万病の元と言えそうです。新聞でコメントをしていた心理学者はストレスを普段から溜め込まないように、「心のギアチェンジ」を提言しておりました。

「心のギアチェンジ」の5カ条とは、@他人の評価を気にしない A全く別のことを考える B大声をだしてみる C明日出来ることは今日しない D開き直る というものです。つまり、あまり急がない事、のんびりと構える事、大雑把に考える事、ということでしょうか。

「スローライフ」という考え方が、少し前から世の中に受け入れられてきました。ゆったりするのは、確かに素晴らしいことです。しかし、一方には現代の若者に多く見られる、無気力・無関心・無感動といった風潮の社会現象もあります。ここでいう、無気力などの「無」はお釈迦さまが説かれる無常の「無」とは違い、気力がない、関心がないことであり、お釈迦さまが説かれた「無常」とは“常では無い”“万物は変化する”“すべては同じ常(状)態ではない”ということを説かれたのであります。つまり「無」という言葉は、そこには何も“無い”ということではなく、そこにすべて在(あ)ると捉(とら)えるのです。

では私達は「諸行は無常である」ことをどうすればわかることが出来るでしょうか。それは偏(かたよ)らずに物事を捉えるという中道の実践、即ち坐禅のこころが、諸行無常を感じる生き方の指針となるのではないでしょうか?

内証(ないしょ)

皆さん、ナイショ話はお好きですか?よく、「ここだけの話ね、・・・。」と言って話をする事がありますが、ここだけに留まらず、四方八方へ広がることもしばしばあります。ナイショ話のはずが、ナイショにならないなんていうことは珍しいことではありません。

ナイショという字は、〈内証〉と書きます。内証とは、心の内の悟りをいいます。心の中ですから、他の人は知ることができません。それが転じて、秘密のことを指す言葉として使われるようになりました。そして、一緒に秘密を共有するということから、〈内緒〉という当て字で使われるようにもなりました。

最近子供たちが耳元で、「お父さん、あのね・・・。」と内証話をしてきます。まだまだ慣れていないのか、周りに聞こえるくらいの内証話です。反対に、こちらが「お母さんには内証だよ。」と言っても、ちゃんとお母さんに報告をしてくれます。なんとも素直な心をもっているものだなと、感心してしまいます。無邪気に心の中をさらけ出してくれているようで、私にはとても微笑ましく思います。

一方、我々大人はといいますと・・・、人に言えない事が多少なりともあるのではありませんか? 悪いことを秘密にしておこうと思っていても、いつかは知られてしまうようです。反対に良いことをすると、人に知ってほしい、褒めてほしいと思ってしまいますが、そのような時にはなかなか知られないものです。

また、相手の人がどのような人なのか、ともすると私たちは表面でしか判断できないことが多いと思います。自分にとって嫌だなと思う人でも、心の中は本当は優しくて温かい人なのかもしれません。心の中の本質は、外からは知ることができないのです。

でも、安心してください。仏さまはちゃんと見ておられますよ。「一切衆生悉有仏性」、われわれの心の中には、いつも仏さまがいらっしゃいます。一番大事なものは、自分自身の心の中にあることを忘れてはなりません。

あなたも仏、わたしも仏、みんな仏さまなのですから。

日々是好日(にちにちこれこうにち)

毎朝、テレビを見ていると、今日の運勢が放送されています。星座占い、血液型占いなど、様々です。一位になると何だか嬉しい気分になったり、逆に最悪だと朝から妙にへこんだりしますよね。皆さんも、そんは経験はありませんか?

今日は、こちらの占いが良いので、悪い方は忘れて、自分に都合の良い方だけを信じようとします。しかし、その日の夜に、今日一日の出来事を振り返り、思い起こしますと、案外、心配する事はなかったりするのではないでしょうか?

禅の教えに、「日々是好日」(『雲門広録』)という言葉があります。よく掛け軸などで、ご覧になった方もいらっしゃると思います。

その日その日が、すべて皆めでたい、よい日である、という意味です。

この「好日」とは、自分にとって都合が「良い日」という意味ではありません。例えば、雨が降って困る場合もあるし、助かる場合もあります。ともすると私達は貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(まよい)の煩悩のせいでしょうか、自分の都合や物差しで、善し悪しを決めてしまいがちです。

しかし、困難な事や辛い事があった時でも、自分を向上させるためなのだと思えば、すべてが有り難い事だと言えます。 その時、その時を、どのように生きるのかは、自分の心がけしだいなのです。世の中は絶えず移ろいゆき、自分も又変わってまいります。沢山の出会いや、別れもあります。掛け替えのない時間を、多くのご縁によって生かされている自分に気づくとき、あなたは新しい自分を見つけるでしょう。

だって今日があなたの人生で、一番新しい日なのですから。

願い(ねがい)

「願い」は、すぐにかなえられるものでは有りません。

手を合わせ「合掌」する。それは何よりも尊い祈り「願い」の姿です。

親しい方が亡くなり七日目を迎えます。この日を「初願忌」といいます。

初願忌は、初めての願いの日と書きます。生前の恩に報い、供養を勤めさせてもらうための最初に願を立てる日です。それからは毎日が願いの日送りする事となります。

一週間ごとの日送りのことを、中陰といいます。年の日送りは年回です。すべての願いの始まりの日々です。

願う事は毎日同じではなく、違う事かもしれません。一年で三百六十五日、毎日願って何年でその思いが実る、叶うでしょうか。

ある日二十三回忌の法事で、お話をしておりましたら、若いお母さんが赤ちゃんを抱いておりました。失礼と思いながら、お年を聞きましたら二十三歳というのです。

二十三歳というと、お葬式の日は何をしていましたかの質問に「赤ちゃんで抱かれていました」というのです。

その時の赤ちゃんが、今自分の赤ちゃんを抱いて、ご法事に出席していたのです。

二十三回忌のことを「思実忌」といいます。願い続け二十三年かかり、家門繁栄・子孫長久の願いが実ったのだと思いました。

仏教詩人の相田みつをさんの言葉に

「願い」
ひとりひとり 自分に合った「願」を持ちましょう。
そして「一隅を照らす」人間になりたいものです。

とあります。それが、手を合わせ「願う」暮らしだと思います。一日一回お仏壇に手を合わせましょう。

分別

「分別」を「ぶんべつ」と読む場合は、「種類などを別々にわけること、あるいは区別すること」をあらわします。

例えば、お米は一等米、二等米、三等米と分別します。家庭ゴミを処分したり、捨てるときは紙類、プラスチック、ペットボトル、ビン、缶等と種類ごとに分別をします。また昨年民主党が政権を執って行った『事業仕分け』も、一つの「ぶんべつ作業」と言えそうです。

さて次に、「彼は分別のあるひとだ」とか「何にでも無分別に手を出す」と言う場合は「ふんべつ」と読み、物事の道理や常識をよくわきまえていることを意味し、無分別はそのわきまえがないことをさしています。

このように現代において「分別」をつけることは良いことを意味しますが、元来仏教での意味・内容は『自分勝手な区別をつける考え』の事を言い、これは迷いにあたります。

例えば一人のひとを、容姿や学歴、職業などで判断してしまうと、先入観が働き、あるがままのその人を見誤ってしまうことがあります。このような概念で判断することが分別であり、逆にとらわれを捨て、そのものをありのままに観ることを無分別といいます。主観や客観を離れて、平等にはたらく真実の智慧(ちえ)、無分別智ともいいます。

「あの人は何となく感じが悪い」などと外面で自己勝手な判断をしていたら、周囲の人々の評判は「とってもいい人ですよ」などということは良くあることですし、農作物も本来の味や安全性の方が大事だということよりも、見てくれや大きさなどで買ってしまうこともあります。

消費者と同じように自分に都合の良い色眼鏡をかけて、世の中を見ていませんか?それでは真実が見えてこないかも知れません。お釈迦様は、世の中を生きる為に必要な人間の智慧として「分別を捨てなさい」とお教えになっています。

でもゴミはちゃんと“分別”しましょうね。

油断

皆様は油断という言葉をご存知かと思います。ところで、「油断」とう云う言葉の意味には幾つかの語源があり、その一つが『涅般経』の中に出ているお話です。

「真実の仏の教えを守り続けてゆくのはとても難しいことである。たとえば王様の命令で一人の家臣が、油で一杯の鉢を持って遠い道のりを歩かされ、もし傾けて一滴でも油をこぼせば、お前の命を断ってしまうぞ!と言われているようなものである」というお話です。

この話は、真実の仏教に生きようとするには命懸けでなければならないことを喩えたものですが、この話をもとにして「油鉢を保つ」とか「油断する」という言葉が出てきました。

油は、ちょっとでも傾くとこぼれやすいものですから、正しい気づかいを保つことを「油鉢を保つ」と言い、抜かりがあったり、怠けたり、おこたることを「油断する」と言います。特に、仏教の修行ではこの油断が禁物で、昼夜を問わず、煩悩に左右されることなく、真実を仏道に求めてつとめ励むことが大切なのだと言われます。

曹洞宗の行事で使われている木版と言う欅で作られた鳴らし物の表面には「生死事大、無常迅速、各宜醒覚、慎忽放逸」と書かれています。

この意味は「一生は重大であっという間に過ぎ去るものだから、よく目を覚まして、くれぐれもぬかりなまけてはいけない」というものです。もし油断すれば煩悩の炎が燃えて、あっという間に地獄まですべり落ちてしまうかもしれません。

これは私達の一般社会にもいえます。たとえば油断大敵(油断は失敗のもとであるから、大敵である。油断して失敗を招くのを戒めた言葉)、油断は怪我の基(けがは、ちょっとした油断がもたらすから、気を許してはいけないということ)、油断も隙もない(少しも油断することはできない。油断がならない)というような諺があるように、コツコツと築いてきた汗の結晶たる会社の信頼や業績が、たった一度不正をしたために、あっという間に無くなってしまったなんていうのはこの類でしょう。のぼるのは難しく、おちるのは簡単です。「油断大敵火がぼうぼう」、「油断一秒怪我一生」などという標語もあります。お互い油断することなく、大事な一生をけんめいに生きて生きたいものです。

薬石(やくせき)

平成23年の3月11日に発生した東日本大震災では、物資の流通が途絶し、避難所に逃れた人々でも、数日間は十分な炊き出しができませんでした。真っ白な米飯を薬石で食べた時は、本当に美味しく、ありがたいと心から思ったものです。

「薬石」とは、禅寺で食べる夕食を指しています。

本来、インド仏教では釈尊の定め(戒律)により、日中一食を基本とし、正午以後の食事は非時食として禁止されていました。そこで、修行者は、飢えと寒さをしのぐために石を温めて腹部に抱き(温石、懐石)、飢渇の病を癒すための手段、薬としていました。しかし、修行者が自ら労働する禅宗寺院では、夕方の軽めの食事が定着するようになり、この食事を薬石と呼ぶようになりました。

現在、薬石の効なく〜〜、といえば、色々と治療を尽くしてみたが、その甲斐なく〜〜、という意味になります。薬石は人の寿命を左右する文字通りの「薬」であり、今日のように湯たんぽや使い捨てカイロのない時代には、その代わりを務めてきたのです。現代においてもお腹の具合が悪い時など、自分の手をお腹に当てて温めることがありますが、病気や怪我をした時の処置である「手当て」の語源でもあります。

又、薬石の石には、石薬など別の意味もあります。石によっては科学的に遠赤外線の放射が立証され岩盤浴に使われたり、漢方薬学でも百種類以上の鉱石が挙げられています。鍼灸の鍼を指す場合もあり、石鍼が使用されていました。

食事としての薬石を、現代世間に生きる我々にも当てはめてみますと、健康に長生きしたいのであれば、食事の内容を野菜中心で、腹七分目にするのが良いと云われています。このような食事は、人の長寿遺伝子に働きかけるとの研究成果も出始めています。

禅には「飲食、節あり」という教えもあります。

節度を持って食事をし、暴飲暴食から「薬石」に改める生活をいたしましょう。

利益(りやく)1

仏教語の中には、一般的な読み方と違っている言葉が結構あります。たとえば、「安心」あんじん(あんしん)「結集」けつじゅう(けっしゅう)「自然」じねん(しぜん)「利益」りやく(りえき)などです。

その中でも「利益」は一般的にはリエキと読み、経済的な利得、儲けや得のこと、仏教語ではリヤクと読み、神仏の恵みの力によって授かる幸福を指します。この言葉に「御」をつけて「御利益」と言うと分かりやすいと思います。

御利益に関する話はたくさんありますが、ここで二つの違った話を紹介いたします。

「A君は第一志望の会社に合格する為に就職試験を頑張りながら祈った。残念ながらめざす会社は不合格で、やむなく第二志望の会社に入社する。御利益はなかった。しかしA君はその会社で実力を発揮し、充実した生活を送った。

「B氏は宝くじの当選を祈る。その結果、一等に当選し大金を手中にした。御利益はあった。しかしそのため、勤労意欲を失い、酒やギャンブルに溺れて健康を害し、借金を作って悲惨な生活を送った。」

もともと「御利益」といえば、仏さまが人間を益すること、つまり仏さまの教えに従う事によって得られる幸福のことであります。

現世では得られるものを「現世利益」来世で得られるものは「後世利益」といいます。

ちなみに、曹洞宗のお経「修証義」に利益する方法。菩薩行が説明されております。

衆生(しゅじょう)を利益(りやく)するというは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり、一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)、是れ(これ)即(すなわ)ち薩埵(さつた)の行願(ぎょう)なり・・・・・

利益とは、一方的なものではなく、お互いに物を与え合い、やさしい言葉で声をかけ合い、共に役立つ事を行い、共に喜び、共に悲しんで暮らせる社会になるよう祈り実践する。この事が一番の御利益なのだと気づきたいものです。

「衆生(しゅじょう)を先に度(わた)して自らは終(つい)に仏に成らず、但し衆生を度(わた)し、衆生(しゅじょう)を利益するもあり。衆生(しゅじょう)を利益すというは四枚の般若あり」

この文言は曹洞宗の『修証義(しゅしょうぎ)』というお経、第四章「発願利生(ほつがんりしょう)」の一節である。

利益(りやく)2

「利益」には二つの読み方があり、「りやく」と「りえき」の二通りの読み方がある。

「りえき」について広辞苑(第六版)では『①利すること。利得。得分。もうけ。とく。②ためになること。益になること。』とあり、経済社会において利益を得るための営利活動や預貯金に利子がついたなどと、主に金銭的なもうけを表す意味に使われる。

一方「りやく」については『①(仏)ためになること。法力によって恩恵をあたえること。自らを益するのを功徳、他を益することを利益という。②神仏の力によって授かる利福。利生。』とあり、いわば宗教的(信仰的)利益と言えようか。

又、岩波仏教辞典では、『福利。また福利をはかること。物質的な意味でも宗教的な意味でも用いられる。仏や菩薩の慈悲、あるいは修行の結果として得られるが、この世で得られる利益を現世利益≠ニいい来世で得られる利益を後世利益≠ニいう。』とある。(傍線は筆者による。)

このように同じ「利益」の文字でも読み方が違うと大分意味が違ってくる。このような言葉は他にもあり、所得や救済、救世などがそうである。

ところで私たちは日常生活の中では仏教語としての「利益」を用いることが、意外にも多いのではないだろうか。その場合は御≠付けて御利益(ごりやく)≠ェあるようになどと祈るのが通例であろう。

いわく宝くじが当たりますように≠代表として希望する学校に入学できるように=A場合によっては息子や娘に良縁がありますように≠ニ祈るのも御利益を願ってのことである。あるいは仏様のお恵みを頂きたい≠ニいうのもあるだろう。

私達は仏様は勿論のこと、共に生きる多くの人々の恵みによって生かされているのである。利益とはその恵みのことであるから、お互いに利益しあっているとも言える。まずは功徳を積んで御利益を祈ることにしよう。

ちなみに、当寺で用いている封筒の裏に、自戒を込めてこんな言葉を載せている。「仏様にお願いする人は多いが、仏様の願いを聞こうとする人は少ない。」

仏供養膳

亡きほとけ様にお供えする供養膳は肉や魚を使わない精進料理です。最近はお刺身をはじめ、肉や魚が供えられることが多いようです。精進料理といっても、臭いの強い、にら、にんにく、ねぎ等はお坊さんの修行の妨げになるので食べません。精進料理では使用しません。

古来インドでは条件が許せば肉も食べていいといわれました。これを三種の浄肉をいうものです。やがて仏教が中国に伝わると、肉や魚は美味しいから欲を起こす。だから食べてはいけないとされました。しかし、肉は病人にとっては薬ということで食べることを許された記録もあります。

考えてみれば、供養は修行です。江戸時代になると、死別の悲しみを耐える修行ということから、肉や魚を我慢することが広まり精進料理が広まったとも聞きます。

ほとけ様にお膳を供え、お経をあげても食べ物は減っていません。「和尚さん、ほとけ様は食べたのでしょうか。」と聞く人もいません。しかし、どうして供えるのでしょうか。

私は、「供養膳の中に、何か故人が喜ぶ料理があればわかりますよ。」と言うことにしています。

それは生前好きだったものを作って出せば、おそらくニコニコする顔を思い出すものではないでしょうか。作る人も喜びの心があるということは、供えた人も、供えられた人も嬉しくなれるものではないでしょうか。料理に思いを込めるから精進料理といえるものです。「食べなくても供えたい」という言葉があります。食べる人も、作る人も料理に込められた思いが心をつないでくれるものではないでしょうか。

嬉しくなれるから供える。自分自身の修行です。単なる食べるものではなく、人はその食べ物に込められた思いを頂戴するものではないでしょうか。

懺悔(さんげ)

儀式で良く唱える懺悔文(さんげもん)の教えがあります。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)・・・私が昔から造った数々の罪とがは、
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)・・・貪り、怒り、愚かさがもととなって、
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)・・・体や言葉や心を通して造ってきたものであり、
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)・・・私は今ここでそれら一切をサンゲいたします。

私達は悪い事をしているつもりはありません。しかしながら人と人との向き合う中で、家庭あるいは社会で、ついつい他の人に不愉快な思いや、心を傷つける言葉や態度をしているかもしれません。
 特に、言葉は言霊(ことだま)といわれ、言葉には霊(たましい)がこもっているといわれます。こころない一言が、その人の心を深く傷つけ取り返しがつかないこともあります。

「懺悔」とは仏教語辞典によると、「ゆるしを請うこと。くやむこと。犯した罪を仏の前に告白すること。悔い改めること。」と訳されています。

お釈迦さま在世の頃、修行者が犯した罪を自らお釈迦さまや長老(先輩の修行者)の前で告白して反省するという儀式がありました。この時、自己のすべてをさらけ出すということなので細心の配慮がなされていたそうです。告白した時点で許されていたのかもしれません。  

自己の罪を認めた者は諸仏の前に懺悔し、罪の恐れから解放されるという形のものです。自ら省みて、道を正していく・・・ということでしょう。

これが中々むずかしいですね。

自分のまわりや日常の生活の中で、一人心静めて省みる機会を作ってみましょう。

私自身、孫に接しながらあの純真な眼(まなこ)で見つめられると、ほとけ様が私の心の中に語りかけているようにも感じます。

ほとけ様やご先祖様は「いつも私を温かく見守っている。私はそれに本当に応えているのだろうか」。そんな思いに出会うのも懺悔の導きではないでしょうか。

布施のこころ

東日本大震災から2年半が経ちました。いまだに多くのボランティアの方々が全国各地より来られて、被災者支援のため活動されている事は大変に有り難いことです。しかも彼等は自費で活動しどこからもお金は頂いていません。被災地に住む我々はもっと感謝したいと思います。仏教ではボランティア活動の様なことを「浄行(じょうぎょう)」と云います。大変に功徳のある行いとされています。それは他の人のために役立ちたいとの浄らかなる心から発せられる行いだからです。また、立派な布施の行いなのです。

「お布施」というとお経を唱えてもらった後、和尚さんにお包みするお金のことと思うのが一般的かもしれませんが、それは布施の一部にすぎないということです。お金や財物の布施ですので「財施」といっています。また、教えを説くことを「法施」といいます。他に、優しい言葉や微笑みといった「無財の七施」と呼ばれる慈悲の心の施しもあります。

それでは布施とは何か。それは積極的に人を喜ばせ、人のために役立とうとすることです。お経の教えによると、不純な布施として、断りきれずに行う布施、恩返しのための布施、返礼を期待しての布施、習慣や先例にもとづいた布施、名声を高めようとして行う布施などがあげられています。人の世によく有りがちなことですが、汚れた布施とされています。

「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」これは永平寺を開かれた道元禅師様の言葉です。へつらいや名声などを考えず純粋に他の利益を考え、相手の立場や他の迷惑にならないよう心がける行いは、最後には自分をも利することになるという慈悲の教えです。一生懸命に他を喜ばせる行いが、さらに増大されて大きな喜びとなって自分が受け取るという心の働きを私たちは持っている事を忘れてはならないと思うのであります。

磐石/盤石(ばんじゃく)

私の住む寺では、寺の歴史よりも古い時代の不動明王像があり、地域の信仰の対象として昔から大切にされてきました。その不動明王像が平成の世になり国の文化財に指定され、それ以降、文化財保護を目的として、像を安置しているお堂の火災報知機や消火栓、避雷針、防犯カメラなどを設置して、少しずつではありますが災害等への備えを進めてきました。

そのような中、防火のため灯明を本物のローソクから電気式のものに交換し、「盤石(ばんじゃく)とは言わないまでも、これでまた一つ災害への備えが整った」と安堵もつかの間、その日、東日本大震災が起きました。これまでのいくつかの災害への備えも未曾有の大地震の前では用をなさず、木造のお不動さまは地震の揺れで大きく痛んでしまいました。

「磐石/盤石(ばんじゃく)」。共に「ばんじゃく」と読みます。一般に重く大きな石や岩のように、堅固でしっかりしていてびくともしないことを意味します。

「今年は東北楽天ゴールデンイーグルスの田中将大投手は、シーズン開幕から24連勝し、主力投手としての地位を盤石なものにした」などと、ものごとが揺るぎないたとえとして用いられます。

仏教では、不動明王が座っている台座のことを「磐石/盤石(ばんじゃく)」と呼びます。そしてそれは金剛石といわれ、ダイヤモンドでできているといいます。不動明王は、何よりも硬く大きなしっかりとした磐石(台座)の上にどっしりと腰をおろし、「人々を救うまでは、決してここを動かない」という強い決意の険しい表情(憤怒の相)で、私たちを見守ってくださる仏さまです。

とはいえ、大自然の猛威の前に当寺のお不動さまは大きく揺れ動き、その破損状況から修復を余儀なくされ、当地を離れ文化財修復のため遠く京都に預けることとなりました。そして約2年の時を経て、この春ようやくお不動さまが戻ってくる日が決まりました。震災後の大変な時期にあっても修復に着手できたのは、地域の人たちの「これまでも、これからも郷土の宝は私たちが護っていく」という揺るぎない方々の強い信心です。それこそ盤石な信心、揺るぎなき「不動心」に支えられたものでした。

球団創設9年目の楽天のリーグ初優勝と日本一に、大きな役割を果たした田中投手の今後の活躍は、皆の大きな期待と注目を集めるところです。ピンチになればなるほど、気合の入った表情と投球をするときには、背中に炎を背負っているお不動さまのような気迫がかんじられてなりません。

当寺にお不動さまが戻る春を待つとともに、田中投手がどこにあってもチームの「不動のエース」として活躍することに大きな期待を寄せています。

薄伽梵(バカボン)

私の小学生の頃の楽しみといえば、給食を食べること、寝ること、遊ぶことの三つでした。特に給食の時間では、クラッシックやアニメの主題歌がスピーカーから流れ、食べる喜びに拍車をかける至福の時間でした。特に印象に残っていた歌は「これでいいのだ〜♪」の決まり文句で有名な「天才バカボン」です。これは赤塚不二夫原作のギャグ漫画でバカボン一家を中心に個性的なキャラクターが活躍。当時私は再放送でアニメを見ていました。

私がバカボンと仏教の結びつきに気付いたきっかけは、お釈迦様の誕生(降誕会)、お悟り(成道会)、亡くなった日(涅槃会)に行われる大切な法要の中に度々薄伽梵(ばぎゃぼん)という幼い頃から聞き慣れた言葉が出てきたことでした。

そこでこの言葉の意味を調べてみると、「薄伽梵(ばがぼん) ばぎゃぼんともよむ。仏の称号。仏の異名。世尊、すぐれた者、煩悩をうち破るもの、もろもろの徳を有する者」(中村元著「仏教語大辞典」)と説明してあります。簡潔に言いますと薄伽梵とは「仏様」を意味していたのです。

さて興味を持った私は「天才バカボン」との関連性を調べるため、コミックを借りて読みました。するとパパの誕生秘話の巻で、バカボンのパパが病院で誕生し医者が見守るなかヨチヨチと歩きだし、立ち止まったところで「天上天下唯我独尊」としゃべったのです。おそらく赤塚先生はお釈迦さま誕生のエピソードを知っていたと思われます。

その後、バカボンのパパは木枯らしが吹く中、大きなくしゃみとともに歯車が口の中から飛び出して自分が持っていた天才とお別れしてしまうのでした。なんとも赤塚先生らいしいストーリー展開ですね。

お釈迦さまとバカボンのパパがしゃべった「天上天下唯我独尊」という言葉は、私たち一人一人はとても尊く、かけがえのないたった一つの命をもっている大切な存在であり、それぞれに役目をもってこの世に存在しているということを教えております。「天才バカボン」のストーリーも一見ナンセンスですが、そこを中心に描かれている様でとても人間的な暖かさを感じます。

悲しい時、苦しい時、そして物事に行き詰まった時、「これでいいのだ〜♪これでいいのだ〜♪天才バカボンバカボンボン♪」この歌をちょっと口ずさんでみませんか。


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