皆さんはトリノオリンピックをご覧になりましたか。ジャンプの原田選手が失格となり、ジャンプ陣営のメダル奪取が出来ず残念な気持ちでいたのですが、フィギアスケートの荒川静香選手は「イナバウワー」で観客を魅了し、見事優勝をいたしました。その時のインタビューの中で「これからも精進して参ります。」と述べておりました。
私たちは生活の中で「精進」という言葉を使います。皆さんは精進という言葉から何を連想しますか。「努力」とか「精進料理」などでしょうか。もともと精進とは仏教語であります。お釈迦さまは、まごころに生きる為に努力する実践行として六波羅蜜(ろくはらみつ)=「布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)」の教えを説いております。
テレビの相撲中継を観ておりますと、勝った力士が「これからも精進してまいります。」と言う光景をよく見かけます。なんとなくですが「努力します」より「精進します」の方が重みのある言葉に感じませんか。「努力」は「つとめあげること」、「精進」とは「雑念を去り一心に仏道修行すること」・「そのことに打ち込んで努力を続けること」と辞書に書いてあります。
私たちの生活はあたり前のように朝をむかえ、あたり前のように夜になります。私たちは多様化した生活の中で日々忙しい毎日を過ごしております。忙しいとは「心を亡くす」と書くように、つい精神的に空白な日々を送りがちです。今ここに私たちは「人生は一瞬一瞬の積み重ねである。」ことを大切に生きる心が必要だと思うのです。そこに、一つのことに一生懸命努力をし、邪念を捨てて正しい努力をするという「精進」の理念を持てば、きっとまごころのこもった爽やかな生活が送れると思います。
「積善の家に余慶あり」=(善行を重ねた人の家には、思いもかけぬ幸運がやってくるものだ)ということわざがあります。「家」を「人」に置き換えて解釈してみてはいかがですか。善い行いをすると思いもかけぬ幸運がやってくることになります。善い行いをするにはやはり「努力を続けること」=「精進」が必要です。見かえりを求めて行うことではありませんが、きっと正しい努力をすることによってまごころのこもった生活が送れるのだと思います。私たちは生活の中の仏教語である「精進」(雑(まじ)らず・退(しりぞ)かず)の理念を大切に日々努力をし、明るい平和な生活を送りたいものです。
毎年毎年、四季の移ろいを経て生活する私達ですが、ようやく好時節(こうじせつ)となりました。ひとたび世の中に目を向けてみますと、毎日悲しい事件や暗い出来事の連続でもあります。
でも、悲しいことや悪いことばかりではなく、私達にとって喜びのうれしい話題もいくつかありました。まずは何といっても、我が宮城県出身の荒川静香選手が、冬季オリンピックで“イナバウア”の秘技によって獲得した唯一の金メダルがあります。また、王監督率いる日本チームが、WBC(ワールドベースボールクラシック)の記念すべき第一回大会において優勝という栄光を手中に収めたことです。両者とも、それぞれ今日この栄光を手にするまでには、苦悩や挫折の日々の連続であったと報じられており、私達の想像を越える苦労や悩みや努力、精進があったのだと思われます。私などは、まるで“泥中(でいちゅう)に咲く蓮(はす)の花”みたいなものだと思うと同時に、ふと、私の頭をよぎったのが、「四苦八苦」という言葉でした。
では、四苦八苦とはどういう意味なのでしょうか。
私は、お釈迦様がいよいよ入滅(にゅうめつ)(逝去(せいきょ)されること)される時、弟子達に申された言葉を思い出しました。
『人生は苦なり、この世はすべからく移ろいゆくものなり、怠ることなく精進するがよい』と。いうものです。
誰一人として苦しみや悲しみを望む人はいないはずです。むしろそのような事が自分自身にふりかからないようにすることでしょう。いわゆる神社(しんじゃ)仏閣(ぶっかく)へのお参りや祈願などもそのひとつといえます。
「我が命、仏の慈悲に抱かれて、露の命の人の身も、善き種蒔(たねま)きて永(とこ)しえに、真実(まこと)の花を咲かせなん」という句がありますが、この句をわかりやすく申し上げると、「人生とは一度きりで二度はないのだ。生者必滅(しょうじゃひつめつ)・会者(えしゃ)定離(じょうり)なのだ。ならばこそ生きている間に善い種を蒔(ま)いて、仏心という花をいっぱい咲かそうではないか」と言うものです。
四苦とは、八苦とは何でしょうか。前述したことと関連するのですが、四苦とは“生苦、老苦、病苦、死苦”をいい、人の一生における苦の総称を表し、更に、愛別離句(あいべつりく)(愛する人と別れる苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく)(苦手な人や、嫌いな人と会わなければならない苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく)(欲しくて仕方のないものが手に入らない苦しみ)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)(色・受・想行、識〈人間の肉体と精神の集まり〉の苦しみとをあわせて“四苦八苦”といいますが、転じて、「人間界のすべての苦しみや言語に絶する苦を意味するようになったものなのです。他にも世の中には七(転)八倒の苦しみ、苦あれば楽あり、苦しい時の神だのみ、などの言葉があります。
いずれもお釈迦様が説かれた人生は苦なりとに通じ、又、どのようにして対処すべきかを説いておられます。
私達は生きている限り、尽きることのない苦しみや煩悩をもって生きて参りますが、『一切我皆懺悔(いっさいわれみなざんげ)』とお唱(とな)えをし「四苦八苦」や「煩悩」を滅除(めつじょ)して生きていくことにいたしましょう。
七難とは、仏教用語で、7種類の災難のことを指します。「仁王般若経」では、(1)太陽や月の異変(2)星の異変(3)風害(4)水害(5)火災(6)日照り(7)盗難の7つを指します。自然災害や人為的な災難も我々人間の手におえない脅威として、江戸時代から恐れられてきました。東日本大震災や最近の悪天候による水害・土砂災害などや巷に溢れる火事・盗難事故等、昨今も七難続きと言えそうです。
数多(あまた)の災難は消滅し、多くの福徳に転ずる転禍為福の考えから生まれたのが、七福神信仰です。「七難即滅 七福即生」といいます。七福とは、(1)寿命(2)有福(3)人望(4)清廉(5)威光(6)愛敬(7)大量の7つです。何物にも変え難い人間の幸せの象徴が、この7つに多く含まれているのではないでしょうか?この7つの福をお授け頂ける神様・仏様が七福神(恵比寿・大黒天・弁財天・毘沙門天・福禄寿・寿老尊・布袋尊)で、それぞれにご利益の役目がある方々の集まりです。江戸時代には、インド・中国・日本を代表する7人の神様・仏様が、乗り合わせてやって来るという伝承が、七福神信仰を栄えさせたようです。
たまたま、仙台には、奥州仙臺七福神霊場があります。藤崎デパートの屋上にえびす神社があり、全国にも類を見ない形式です。各霊場のご真言をお唱えし、ご朱印を頂いて参拝するのが通常の作法です。自家用車利用ですと2時間位で参拝できますし、東北各地からも団体・個人で参拝する方も多いようです。
ちなみに、色の白いは七難隠す(色白の女性は多少の欠点があっても、それを補って美しく見える)という諺があります。「法華経」に説かれる七難は、上記の七難と多少異なり、火難、水難の他、悪鬼や死霊による災難が含まれます。生活の乱れ・老いの恐怖・性格のキツさ・運の悪さなどを補う、「白」の言葉の持つ純粋無垢さ・清廉潔白さ・明るさが強調された言葉だと思います。穏やかな気持ちが福を呼び込むのでしょう。
「祇園精舎(ぎおしょうじゃん)の鐘の声、諸行無常の響きあり」とは平家物語の冒頭の有名な句ですが、お釈迦さまは諸行無常とは、「この世は無常である」と説き、生あるものは必ず滅び何一つとして変わらないものは無いと言っておられます。即ちあらゆる現象は変化して止むことがない、人間の存在もそうであり、つくられたものはすべて瞬時たりとも同一のままではないのであり、物事は総て(すべ)時間と共に移り変わるということです。
私達も同様に、年月と共に変化し、いわば成長し老いて行きます。人生という荒波の中で紆余曲折(うよきょくせつ)を経て生きて行くのです。そのような人生の中で私達は多くの人々と出会い、多くの事を学びそれを糧(かて)として、豊かな満足のできる人生を歩みたいものです。そこには必ず感謝の気持ちが生まれることでしょう。また、尊いことだと思います。
とかく、現代社会は忙しいことからストレスが溜まりやすいものです。先日の新聞で、現代の病気の要因はストレスに起因するものが多いという指摘がありました。よく風邪は万病の元と言いますが、現代ではストレスも万病の元と言えそうです。新聞でコメントをしていた心理学者はストレスを普段から溜め込まないように、「心のギアチェンジ」を提言しておりました。
「心のギアチェンジ」の5カ条とは、@他人の評価を気にしない A全く別のことを考える B大声をだしてみる C明日出来ることは今日しない D開き直る というものです。つまり、あまり急がない事、のんびりと構える事、大雑把に考える事、ということでしょうか。
「スローライフ」という考え方が、少し前から世の中に受け入れられてきました。ゆったりするのは、確かに素晴らしいことです。しかし、一方には現代の若者に多く見られる、無気力・無関心・無感動といった風潮の社会現象もあります。ここでいう、無気力などの「無」はお釈迦さまが説かれる無常の「無」とは違い、気力がない、関心がないことであり、お釈迦さまが説かれた「無常」とは“常では無い”“万物は変化する”“すべては同じ常(状)態ではない”ということを説かれたのであります。つまり「無」という言葉は、そこには何も“無い”ということではなく、そこにすべて在(あ)ると捉(とら)えるのです。
では私達は「諸行は無常である」ことをどうすればわかることが出来るでしょうか。それは偏(かたよ)らずに物事を捉えるという中道の実践、即ち坐禅のこころが、諸行無常を感じる生き方の指針となるのではないでしょうか?
「その刹那 武蔵の剣が光った。」ご存じ宮本武蔵の一節ですが、刹那という文字を目にした時や言葉を耳にした時、皆さんはどんなことを連想したり考えるでしょうか。
この「刹那」と言う言葉が仏典によって日本に伝えられた極めて短い時間を示す単位のひとつであることをご存じの方は意外と少ないかもしれません。
刹那とは現在の時間にすると、75分の1秒(1/75秒)の極めて短い時間を表します。さらに、65刹那を一弾指(いちたんじ)といい、弾指とは指を弾いてパチンと音の出る瞬間を表しています。さらに、120刹那を一怛刹那(いちたせつな)といい、2,250分の1時間(1/2250時間)を表します。さらに、60怛刹那を一臘縛(いちろうばく)といい、現在の時間にすると16分ぐらいになります。そして、30臘縛を一牟呼栗多(いちむこくりた)といい、現在の時間にすると8時間程度になります。
一方、仏典には刹那のように極めて短い時間を表す言葉があるかと思えば、劫(こう)という極めて長い時間を表す言葉もあります。
それは、縦、横、高さが40里もある石山に、三年に一度天人が降りてきて、羽衣の袖で、石山をなでることにより、その石山が磨耗により消滅するまでの時間を一劫(いっこう)と言うのですが、まさに気の遠くなるような長い時間を表す言葉もあります。
二千五百年もの昔からこのように極めて短い時間や、極めて長い時間を表す言葉を駆使してまでもすばらしい教えを伝えて来たのが仏教なのです。
ところで刹那を使った言葉で多くの方が思い出すのが「刹那主義」という言葉ではないでしょうか。過去や未来を考えずに、あるいは道理や本質などを考えずに、自分にとって今この(その)瞬間さえよければそれでいいという考え方を表していますが、現代社会はまさに、刹那主義が蔓延しているといっても過言ではないかもしれません。
もともと仏典で説かれている「刹那」とは一刹那・一刹那(一瞬・一瞬)を大事に大切に生きなければならないことを言っているのですが、このような時代だからこそ、み仏の教えに耳を傾け、ともすれば刹那主義におちいりやすい生活をみつめなおし、悟りの世界をもとめる生き方をして頂きたいと思います。
仏教では「安らぎのある人生」を得るため二つの極端を離れよと教えています。たとえば快楽主義と苦行主義の両極端の如きです。
それには物事の道理をはっきり見極める力を養わねばなりません。その力は心の偏りをなくすことにあります。自分勝手に人の迷惑も省みず生きるか、周囲に思いやり深く真心をもって生きるかで「安らぎの人生」が実現されるものではないでしょうか。
ところでこの「中道」の語は仏教語ですが政治の分野などでも使われますね。「中道路線」が良い例です。現代でも仏教語は生きているのです。
さて、「中道」とはバランス良く生きるということです。このバランスがなかなか難しい。生活でも仕事でも人付き合いでもバランスが重要です。
お釈迦様の教えに、「良家の人は財産の収入と支出をしって平均のとれた生活をする。贅沢に過ぎることもなく、貧し過ぎることもない」とあります。「良家の人」とは古代インドの、主に都市の上層部を形成していた人たちを指します。
その彼らに対して、収支のバランスをとれ、と教えています。欲望のままに使ったら破滅する、というのです。同時に必要以上に窮乏(きゅうぼう)生活をしなさいというものでもない。つまり分不相応な生活を戒めているのです。
この事は現代社会の私達にも十分に通じる教えです。ただでさえ混乱と困惑の多い時代に、「ないものねだり」「限りなくねだる」自我欲望が人間生活に及ぼす「悪」の影響を見てとることができます。「過ぎたるは猶(なお)、及ばざるが如し」とあるように「自我欲望は野放図(のほうず)につのらせる」、「他人をわが身にひきあてて考える」ことが「中道」の実践です。あとは各個人の判断と努力によって、「安らぎのある人生」が得られるのです。
鮮やかな木々の緑に吹き渡る清風・・・空も大地も光り輝いている季節。この季節、各地のお寺ではお釈迦様の誕生をお祝いする「花祭り」が行われます。本来4月8日がお釈迦様のお誕生日ですが、この地方では4月8日はまだちょっと寒く、花が咲くには遅いので、1ヶ月くらい遅くして花の咲き乱れる5月頃に行うお寺もあるようです。
さて、皆さんご存じのようにお釈迦様は2500年前のインドにお生まれになりました。 お釈迦様の伝記にはお生まれになってすぐ七歩歩かれて、天と地を指さされ「天上天下唯我独尊」とおっしゃったとあります。生まれたばかりの赤子が言葉を発したり歩いたり出来るのか、という問題はさておき、皆さんはこの言葉をどのようにお感じになりますか?
「天にも地にもただ私がだけが尊いのだ」とか「この世で私が一番偉いのだ!」読み方によってはとても独りよがりに聞こえますよね。ところがこの言葉は実はとても深い意味があり、仏教そのものを表していると云っても過言ではないのです。
それは「いまここに生まれた一つの生命は誰人にも損なわれることのない尊い存在である」ということです。人間だけでなく、動物、植物全ての生きとし生けるものの生命への賞賛と尊重であり、2500年前より繰り返し伝えられた私達へのメッセージなのです。
この言葉は、ちょっと視点をかえて今風に表現すれば「基本的人権」の尊重にも通じるところがあります。
日本国憲法第三章(基本的人権の享有と性質)
第11条 国民は全ての基本的人権の享有を妨げられることはない。この憲法が国民に
保障する基本的人権は侵す事の出来ない永久の権利として現在及び将来の日本国民に与えられる。
人類はこの「基本的人権」を獲得する為に、長い歴史の中で沢山の犠牲を払いました。人間はややもすると努力を惜しみ、それでいて体力、能力、財力等を中心にあらゆる意味で自分より力の劣った人間の出現を喜ぶ傾向があります。弱者を倒し、加えてそれを固定化する動きが人類の歴史の中で絶えず繰り返され、やがて常に差別され続ける不安な立場の人々を量産していったのです。これは人間の愚かで悲しい性(さが)ですね。
「天上天下唯我独尊」・・あなたが父母から頂いた「命」はとても尊い、同時に他の人にとってもこの「命」はこの上なく尊い。お互いがお互いの尊き命を尊重するとき、自ずとそこに「基本的人権」が生まれてくるのではないでしょうか。
「若だんな」、「だんな様」など檀那(だんな)と聞いて連想されるのは、お店の主人であったり、あるいは夫のことであったりし、敬意を持ってそう呼ばれることが多いようですが、皆様はいかがですか?
そもそも檀那はインドのサンスクリット語「ダーナ」をその語源とし音写したもので、ドナー(臓器提供者)やマダムの語源にもなっている言葉であり、檀家(だんか)や檀那寺(だんなでら)もこの「檀那」から派生し転じて用いられるようになったもので、「施す」、「与える」、「施す人」、「与える人」という意味で、意訳すると"布施(ふせ)"となります。
布は普(あまね)く広くの意味で、すなわち「布施」=「檀那」とは、広く誰にでも区別無く施すこと(施す人もしくは施しの行い)です。更にこの布施は、財施(ざいせ)、法施(ほうせ)、無畏施(むいせ)の三つに大きく分けることができます。
「財施」とは、金品や物品を施すことであり、お寺への御礼としてのお布施もこれにあたりますし、災害時の衣類や毛布、食料などの救援物資や義援金も財施であるといえます。
「法施」とは、お釈迦様の教えを伝え実践することでありますが、他人のためになるような自分の体験談をお話してあげることもこれにあたります。とても親切で治りが早く、おまけに待ち時間も短い歯医者さんを見つけた話、漬物のおいしい漬け方、若者が電化製品の使い方を年配の方にお話するなどもそうです。
「無畏施」とは、おそれ(畏れ)不安を取り除いてあげることで、すなわち安心や安らぎを与えることです。赤ちゃんにとって母親という存在は絶対的な安心感を与えてくれます。他にも金額には換算のできないような親切な行いを言います。優しいまなざし、明るい顔、優しい言葉がけ、親身にする、思いやる、席を譲る、おもてなしをする。どれも身近にあります。
永平寺をお開きになった曹洞宗の開祖である道元禅師様は「布施というは貪(むさぼ)らざるなり」とお示しになりました。その大前提は貪らないことであり、見返りを求めないことだというのです。相手を敬う気持ちから損得勘定抜きに実践する行いが布施なのです。たとえ相手から「ありがとう」の言葉が無くても、そもそもそれを望まないことが前提なのだというのです。
不景気とはいえ、まだまだ経済大国といえる日本では利益追求至上主義となってしまいがちです。ご近所、あるいは家族関係でさえも殺伐としている現代にあって、不足しているのは相手を敬う気持ちではないでしょうか。檀那=布施は、この相手を敬うという気持ちがあれば自然と出来ることなのです。逆になければ、貪りの気持ちになってしまい、いつまでたっても布施の心は身につかないともいえましょう。
人は、誰しも本来、生まれながらに与えるものが具わっています。相手を敬えば貪らず、親切な行いを実践できます。本来人間誰もが檀那でありますし、又そうでなくてはなりません。まずは自分の家族やご近所の方へ心掛けてみてはいかがですか?。
もっとも、それが押し売りになってはいけませんし、何よりも大事なことは、自分自身も相手に感謝する気持ちを忘れないようにしなくてはなりません。
みなさんは、日頃いかがお過ごしでしょうか。沢山やることがあって忙しく過ごしている方や、時間をもてあましてしている方など、人それぞれだと思います。
忙しい時は、あっという間に時間が過ぎてしまいますが、反対にやることがなくて暇な時は、退屈することがありませんか。
退屈は嫌ですよね。やることがないというのは、結構つらいものがあります。辞書によると「退屈」とは、暇で時間をもてあますこと、とあります。しかし、仏教では、「退屈」とは、仏道を求める心が・退き、・屈することを意味します。つまり、覚り(さと)(悟り)を得ようとしている気持ちが、修行の厳しさに負けていやになってしまう状態をいいます。これが本来の「退屈」の意味なのです。気持ちが退いてしまって、やる気がでなくて何もしない様子を見て、暇そうに見えることから、その状態を「退屈」というようになったのでしょう。
私も大本山僧堂での修行生活において、幾度となく「退屈」をしてしまったことがあります。と言っても、暇をもてあましたという意味ではありませんよ。修行ですから、暇などというものがあるわけがありません。特に在家(一般家庭)の出身である私は、修行生活に入る時、それまでの生活とあまりにかけ離れていた為に、一日で嫌になったことを覚えています。その後、「退屈」をする度に、いろいろな方に励まされ、屈してしまいそうな気持ちをぐっと堪えて修行をさせて頂きました。このことは、今でも変わりがありません。
このようなことは、何も仏道修行に限ったことではありません。似たような経験をお持ちの方、あるいはそのような話を聞いたことのある方もいらっしゃるでしょう。
例えば、夢や希望を持って上京したけれど、都会の風は冷たく、志し半ばで挫折するということもあるでしょう。このようなときは、やはり「退屈」したといえるでしょう。
仏道修行だけではなく、どんなことをするときも、一度はじめたら簡単に「退屈」してはいけません。「これがダメならあれでいこう」などと、いろいろやり方を変えながら工夫をしてみましょう。気持ちが折れてしまっては「退屈」をしてしまいます。「退屈」はいけません。だって、やることがなくなって時間をもてあましたら、それこそ退屈してしまいますから。
種子とは一般的に文字通り植物の種の事を言いますが、仏教では経験が潜在的に保持され、将来、機会があれば次の経験として実現し、または次の経験に重大な影響力(可能性)を持つもの、つまり、物事の根源、全ての現象を生じさせる力という意味を持ちます。私達の普段の行いは、あたかも種を蒔き苗床を育てているようなものです。
農家の方々は、米や野菜を作るために大きな労力を費やされています。耕起、代掻き、畦作りなど、良い米作りは良い土づくりから始まります。育苗では、幾重もの細かい作業を経て種籾を選抜し、良い苗床を作るため水、空気、温度に注意を払い育てていきます。田植えが終われば、肥料をやり病気や雑草と闘い水を抜いたり入れたり、我が子のように成長を見守ります。そして最適な時期を見計らって刈り取りを行います。簡単に説明しましたが、数多くの作業を経て我々の食卓に登場しているわけです。
さて、我々の生活では一つ一つの行いが大切な種の役割を担っています。道元禅師は「一日の行持、是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり」とおっしゃっています。我々の行いは、仏になるための種であり、その行いは仏の行いそのままであるという意味です。元々、全ての人に仏性があり、皆、仏になるための種子を持っているのです。そうであるからこそ、我々はしっかりとした良い土(経験)を作り、苗(可能性)を育てていかなければならないのです。
仕事は社会の苗床です。良い社会の苗床を作れるように、頑張って仕事をしましょう。家庭や学校は子供たちの苗床です。良い苗床を作るには、我々大人が、できる限り、水や空気や温度を調節してやらねばならないでしょう。そうして、育った子供たちが沢山の穂(仏の心)を身につけ、次代を、より希望の持てる社会へと作り上げていく世の中にしたいものです。
「泥池から蓮の花が育つ 人皆に美しき種子あり 明日何が咲くか」 安積得也詩集「一人のために」より
ある時、五、六人で静かに話をしていましたら、隣の席でも四、五人が会話をしていました。突然、隣のグループの一人がかん高い声を発して、その場の雰囲気にあわない、調子はずれの声で歌い出しました。周りの人々は、この人は何だろうという顔をしながらお互いを見合わせていました。しかし、当の本人は何食わぬ顔でまた元の会話の中に戻っていました。 その場の様子を読めない人、自分勝手な行動をする人、無責任な人、利己的な人が多くなっているようです。
また、ある会社に今年の春に就職した青年の話でありますが、就業中にポケットから飴を出して食べていましたら、上司から、今は仕事をしている最中ではないか、飴を食べてはいけないのではないかと注意をされたそうです。するとその青年は、「どうして注意をされるのか理解できません」と返事をし、しかも注意をされたことについてその青年の親が会社に抗議を行ってきたとの事でした。その後、青年は就業中に無断外出や食事をしたりすることが続き、結果として会社を退職したとのことです。このような行動、振る舞いの要因は何だったのかと考えますと、いわゆる現代病の一つなのかと思われます。
これらのような行動をする人を変わった人と扱い、又その様子を指して「素っ頓(貪)狂」だ、などと呼ぶことがあります。仏教の立場から見ても自身の欲望に対する執着のあまり心が乱れ錯乱状態に陥いっているように思われ、良いことではありません。
仏教の教えは「無頓(貪)着」、貪に執着しないことが基本であります。一人ひとりの人間の財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲の五欲は私たちの迷いの根源となる所でありますので、これらの欲に頓(貪)着しないようにすることが必要だと説かれています。
そう言えば最近来日され話題となりました南米のウルグアイの前大統領のホセ・ムヒカ氏も同様のことをおっしゃっていたそうです。「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人だ。」(『世界でもっとも貧しい大統領ホセ・ムヒカの言葉』、佐藤美由紀著、双葉社) この言葉は南米先住民族アイマラ族などの言葉として紹介されておられましたが、お釈迦さまも同様にお諭し下さっておられるところです。「知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の燐憫する所となる。」(仏垂般涅槃略説教誡経より)
少欲知足を学び、幸福を招き寄せるように努めたいものであります。
禅の心を伝えるためにいろいろな禅の書物がありますが、その一つに「碧厳録(へきがんろくという書物があり「啐啄同時」ということばをもって禅の心を伝えようとしています。
啐という漢字は鳥が卵を孵化しようとした時、玉子の殻の中で雛鳥がお母さん鳥に温めてもらってありがとう、早く殻から出たいよう、と内側から嘴でコツコツと殻を叩く音を表現した文字が「啐」と言う漢字です。また、お母さん鳥がその孵化の時を察して、殻の外からトントンと突き破る音を表現した文字が「啄」という漢字なのです。その啐と啄が時を同じくして行われるということから、師僧と弟子との関係、親と子供の関係、夫婦の関係など、心と体が一つになって同時に心を伝え合うことを表現するすばらしい働きを四文字で表現しているのです。
この「啐啄同時」を学ぶ時、思い浮かぶ四文字があります。師僧と弟子とが禅の心を伝える「以心伝心」の四文字であります。師僧と弟子、夫婦、親子、恋人同士の関係にあっては、以心伝心の間柄でありましょう。親密度の高いことを表わすためのことばであります。
言葉を使わず、ことばをかわさなくても、心を以って心を伝えるというすばらしいことであり、「以心伝心」という四文字の禅のことばは、禅の本質を表現するすばらしいことばであります。
親鳥と雛鳥の「啐啄同時」、や師僧と弟子、夫婦、親子関係の「以心伝心」心と体が一つになって同時に心を伝え合うためには、相手の心が直(ぢか)に伝わる必要があり、自分の心が素直な心でなければなりません。心の鏡がゆがんでいると、すべてがゆがんで映ってしまいます。そのためにも真実の姿がそのまま映るような鏡にしておきたいものです。
また啐啄同時、以心伝心を学ぶ時、もう一つ二文字のことばがあります。それは「阿吽(あうん)」というものであります。山門のあるお寺にいきますと、その中に二体の阿吽の形をした金剛力士像、仁王さまが立っておられます。右側には大きな口を開いた阿形の仁王さまがおります。阿形の阿とは、私たち人間がこの世に誕生するとき、母体より生まれるとき、「オギアー」と第一声を発する生命のあかしを表現しているといわれ、またこの世を去るとき、息を引き取るといいますが、息をはくのではなく、息を飲むがごとく、「吽」として世を去ると言われています。すなわち、物の始めと終りを表現することばとして「阿吽」の二文字があります。
またこの「阿吽」の二文字は例えば阿吽の呼吸などと表現する時に使用される二文字であり、そのときは、啐啄同時、以心伝心と相い共通する心と心の一体的関係、体と体との一体的関係が生じるのであり、相手と自分とが相通じ合うことを表現することなのであります。
今年に入って世間を賑わせた言葉の一つに「忖度」があります。気に入られるよう媚び 諂(へつら)うといった意味が強調されてしまっていますが本来は違います。広辞苑には忖も度も、はかる≠フ意で他人の心中をおしはかることとあり、おもんばかる≠竍心を推察する≠ニ解せます。本来は忖度に良いも悪いもないはずなのですが、役人が政治家の考えを忖度するなどというようにマイナスのイメージがついてしまったように思います。
広説仏教語辞典によれば、「思考。推理。論理。黠慧(げちえ)。乾慧(けんね)。」とあり、「忖度人」とは実行を伴わない単なる理論家と説明されます。仏教は、特に禅では実践を重んじます。人の苦しみ悲しみを吾がことと受け止め、救いたい安らかになってほしいと強く願う心を慈悲といい、慈悲の実践は仏教の中核をなす教えです。
忖度して人の心中を察し、思いやる。さらには、思いをいたすに留(とど)まらず我が身にひきくらべて行動に移すことは、とても大切です。しかし実践するとはいっても、自らの名誉や利を思って諂(へつら)いがあっては、それこそ世間を騒がせた誤った忖度となってしまいます。
昨年、熊本地震から一ヵ月後に地元石巻の駅前で支援募金の托鉢を行いました。たくさんの皆さまが協力して下さいましたが、とりわけ高校生の生徒さんたちが積極的に募金してくれたことがとても印象的でした。東日本大震災の時に小学4年〜6年生だったお子さん達が自分の財布を持つようになり、一様に我も我もと200人以上が温かい気持ちを手向けて下さったのです。恐らくは自らの被災体験と重ね観て、自(おの)ずとそうせずにはおられなかったのだろうと感じると同時に、嬉しくて目頭が熱くなったのを憶えています。こういうお子さん達が背負っていくこの街の未来はきっと大丈夫だと確信できたからです。
自らの利を挟まずに純粋に他を思いやって行動することの大切さを子ども達に教えて頂きました。 。
2年ほど前、檀徒であるCさんの奥さんが20年ぶりにお墓参りに来られ、挨拶に見えました。その際のお話によりますと、40年前にCさんと結婚されて以来、義理の父と母に「我が家に向かない嫁」と言われ、家族のために一生懸命努めても「いじめ」「いじわる」をされて辛く悲しい日々を我慢に我慢を重ねる毎日が続いたとのことでした。そのようなところから義理の父と母が亡くなった後、墓参りする気も起きない状態が続いて今日を迎えたとのことでありました。
ところが、最近夫のCさんが長期入院の治療が必要となり、看護をするうちに、神頼み、仏頼みのひとつとしてお墓参りに来たとのことでした。
お墓参りが終わった後、ふっと気がつくと何故かとても清々しい気持ちになり、20年以上に亘るやるせない気持ちが一度に吹き飛んだ思いがしたとのことでした。
どんなに「いじめ」「いじわる」されたとしても、義理のご両親は長期入院している最愛の夫の親であることには変わりありません。
「誠心」とはいつわりのない心、浄らかな心をいいますが、私たちがいつわりのない浄らかな心で信仰にめざめた時、悪いことが出来なくなるでしょう。
浄らかな信仰は悪いことがおのずと出来なくなると同時に進んで善い行いをするようになるのです。
さらに、それは自分だけでなく、周囲の人々にまでも、善い影響を及ぼすことになります。
ともすれば私たちは、毎日の生活の中で、素直になるということが、なかなか出来ません。
しかし、仏様の前では自分の心を開き素直になれるものなのです。Cさんの奥さんも御先祖様のお墓の前で、きっと心を開き素直になれたのでしょう。
"執着"を広辞苑で調べると「強く心をひかれ、それにとらわれること」とあります。又仏教語大辞典(中村元編)によると「事物に固着して離れないこと、忘れずにいつも心に深く思うこと、とらわれ。握りこむ。しがみつく。にぎりこみ」という意味であり、仏教では修行の妨げになるもととして悪しき心の働き、苦しみが生まれる源としてとらえられております
衣食住に対する執着は、私だって無い事はない。いい着物を着て、美味い物を食べて、 立派な家に住み度いと思わぬ事は無いが、只それが出来ぬから、こんな処で甘んじて居る。
(夏目漱石『文士の生活』より)
"執着"は苦しみの源として捉えられていますが、しかし確かに言える事は、生きている限りわたしたちの心は絶えず何かに執着しているということです。人は誰でも豊かでより良い生活を求めます。従って"執着"も考えようによっては「幸せになれるように」そして「不幸にならないように」という人間の基本的な欲望に従っているのではないでしょうか。
お金、地位、名誉、名声、成績、業績、夢、目標、愛する人、人づきあい、世間体、健康、長寿・・・ 私たちは確かに、自分が幸せになる為に色々な物や事を求め、しかもそれにとらわれます。 しかし自分の幸せに結びつくはずのこれらの要素もややもすると、それにとらわれ過ぎてしまい、まわりのことや他のことがまったく見えなくなって、逆に不幸になってしまう場合がよく見受けられます。
「私は○○がないから、幸せじゃない」と思い込んでしまうのは、幸せに執着していると言えるでしょう。
「私は△△がないから、不幸だ」と思い込んでしまうのも、不幸に執着していると言えそうです。
私は、「幸せは、身近に、無数にありますよ」「悩みや問題があっても幸せに暮らすことはできますよ」というのが幸せになる考え方であり、幸・不幸に執着して苦しまないのではないかと思います。
"執着"しないとは、"望まない""求めない"ことではなく、"望み過ぎない""求め過ぎない"ということなのです。自分が望むもの(幸せ)を求めて努力するのは、とても良いことなのです。漱石のいう「こんな処で甘んじて居る」生活というのも丁度良いという人がいるかもしれませんね。
平成23年の3月11日に発生した東日本大震災では、物資の流通が途絶し、避難所に逃れた人々でも、数日間は十分な炊き出しができませんでした。真っ白な米飯を薬石で食べた時は、本当に美味しく、ありがたいと心から思ったものです。
「薬石」とは、禅寺で食べる夕食を指しています。
本来、インド仏教では釈尊の定め(戒律)により、日中一食を基本とし、正午以後の食事は非時食として禁止されていました。そこで、修行者は、飢えと寒さをしのぐために石を温めて腹部に抱き(温石、懐石)、飢渇の病を癒すための手段、薬としていました。しかし、修行者が自ら労働する禅宗寺院では、夕方の軽めの食事が定着するようになり、この食事を薬石と呼ぶようになりました。
現在、薬石の効なく〜〜、といえば、色々と治療を尽くしてみたが、その甲斐なく〜〜、という意味になります。薬石は人の寿命を左右する文字通りの「薬」であり、今日のように湯たんぽや使い捨てカイロのない時代には、その代わりを務めてきたのです。現代においてもお腹の具合が悪い時など、自分の手をお腹に当てて温めることがありますが、病気や怪我をした時の処置である「手当て」の語源でもあります。
又、薬石の石には、石薬など別の意味もあります。石によっては科学的に遠赤外線の放射が立証され岩盤浴に使われたり、漢方薬学でも百種類以上の鉱石が挙げられています。鍼灸の鍼を指す場合もあり、石鍼が使用されていました。
食事としての薬石を、現代世間に生きる我々にも当てはめてみますと、健康に長生きしたいのであれば、食事の内容を野菜中心で、腹七分目にするのが良いと云われています。このような食事は、人の長寿遺伝子に働きかけるとの研究成果も出始めています。
禅には「飲食、節あり」という教えもあります。
節度を持って食事をし、暴飲暴食から「薬石」に改める生活をいたしましょう。
平成22年度警視庁の統計によると、全国での家出人検索依頼件数は80,655人の報告になっています。昨年に至っては、災害の影響もあり、正確な集計がまだなく、最終的には9万人を越える数字になるのではといわれています。
密かに家を出て帰らず、生活してゆく事が「家出」であることに対し、出家は家族などとの関係を切り、世俗を離れ、戒を受けて僧になる事、またその人であると説明されております。(大辞林) 文字が逆になることで、一方では社会に背を向けた生き方や行いとなり、一方では尊いものとなります。ちょっと不思議な感じがしますが、「出家」はまぎれもない仏教の言葉なのです。
厳密に言うと「出家(者)」とは、家族という集団や職業という柵(しがらみ)のある俗生活から離脱し、修行者として仏道の真理を求める事やその人をいい、対して俗世間の生活をする中で仏道を求める事やその人を「在家(者)」と言い、区別しています。
お釈迦様は29歳の時釈迦族のカピラ国の王子の身を捨て「出家」され、悟り(成道)をひらかれ覚者となられ、国に帰られ仏教を広め、多くの方々を教化されました。
階級差別の激しいインドにおいて、お釈迦様は、身分階級の分け隔てなく弟子になりたい者を「出家」させ、弟子として平等に接し、指導なされました。階級差別の厳しい中で平等を唱えられ、階級を離れてお釈迦様の弟子となる入門を許されたのです。改めてお釈迦様の心の寛大さと偉大さに敬服するばかりです。
伝統仏教教団(宗派)では「出家得度式」などと言い、必ず師匠と仰ぐ僧侶たる資格者のもとに弟子入りをし、言わば出家者としての入門式を行うこととなっています。禅宗では【授戒】、浄土宗では【受戒五重相伝】、真言宗では【結縁灌頂】というように称され、儀式を経て俗名(戒名や法名)を授かる式をいたします。その過程を経て、それぞれの教団や宗派の定めにより僧侶としての修行が始まるのです。又、別の辞書には「出家」とは「現代では、各宗派の定めに従い、僧としての資質を得ること」ともあります。
現代の仏教の教えでは、「出家」を必ずしも勧めているわけではなく、「在家(者)」の生活の中に仏の教えを活かすことと説いていると思います。いってみれば、精神的なホームレスの生活をするかということでしょうか?あくせくせず、がつがつせず、いらいらせず、おおらかに、のんびりと、心広く・・・・そう在りたいものです。
仏教語に「世間」という言葉があります。現代では世の中という意味で使われることが多く、そこから派生して「世間体」「世間並み」「世間話」等の言葉でも使われています。
しかし本来仏教の中では移り流れてとどまることのない現象世界、またこの世界に生きる人々のことをいい、この世界から超出すること=「出世間」が仏教の最終目標とするところなのです。
私たちが生きるこの世には永久不変のものなど何ひとつありません。だからといって、平家物語に代表されるような「もののあわれ」「はかなさ」といった感傷的な無常観が仏教の捉え方ではありません。種から芽が出て美しい花になるのも、子供が生まれ成長し大人になっていくのも、なに一つとして恒常な存在ではない(無常)この積極的な捉え方こそ仏教でいう〈諸行無常〉なのです。
この世の全てのものは実体がないにもかかわらず〈諸法無我〉、永遠の存在であるが如きに錯覚し、執着することから煩悩が生じます。これが人の世の悩み苦しみの原因なのです。そして、この道理を知ることで人は向上していくことができるのです。
この無常なる人生の中でどのように生きるべきか、どうしたら充実した生き方ができ得るかを考え精進していくことにより悩み苦しみを超越し煩悩から離れ、心安らかな世界それすなわち仏の境地、悟りの世界にいたることがお釈迦様のみ教えであり、我々仏教徒が目指すべきところではないでしょうか。
皆さんのお宅で最近亡くなった方がおられましたなら、その方はどちらで目をおとされましたか。ほとんどの方々は御自宅以外の場所で永い眠りにつかれておられませんか。
「終」は「終わり」のことですし、「焉」は「ここか?」という疑問の意味を持っており「ここ」を指し示す意味もあります。
仏教辞典によりますと「終焉」は「(1)命の終わり、死の間際(2)世俗を離れて静かに余生を過ごすこと」などとあります。つまり「終焉」とは終わりの時期を意味し、言ってみれば「死に場所」ということににもなります。私達の人生の終わり、「永(とわ)の別れ」をすることでもあります。
ところで、今から三十年、四十年ほど前の終焉、終(つい)の棲家(すみか)はほどんとが我家つまり家族のいる住宅で、しかも二世代、三世代が同居していたことが多くありました。最近はというと、私が住職を務めているお寺のお檀家さんの方々の状況を鑑みましても、どちらでお亡くなりになられましたかと尋ねますとほとんどの方が施設です、病院ですとご返答されます。
そしてそのような場所で亡くなられた場合、次に多くの場合におっしゃるのが、「本人は家に帰りたがっておりましたし、自宅に連れて帰りたいのですが、狭いですし、片付けもままならないので・・・、云々」という言葉ではないでしょうか。
時代の流れや住宅事情と言ってしまえばそれまでですが、頼まれるご家族も「それでいいのかなぁ」と思っているでしょうし、葬送を引き受ける和尚としてもついつい思ってしまいます。
そんなところから最近は「お寺は、お檀家皆さんの家ですから」と言って、できるだけ御遺体をお迎えに上がり、お寺にお連れし、葬儀の始まりである枕経(臨終のお勤め)もお寺でさせて頂く様になりました。
時代や社会環境の変化に伴って形は変わるのかもしれませんが、お釈迦様が真実として見通された四苦の生老病死、最後の場面である「ついのすみか」はどんな人にも必要だと思います。
娑婆とは、サンスクリット語の「サハー」が語源で、「忍耐」を意味する言葉です。
つまり浄土に対して、穢土(えど)といい、忍ぶことの多いこの現実の悩める人間世界をさします。現代では、獄中にいる人が外の自由な世界の意味に使うことがあります。
浄土は仏様がおられ、安穏で天人が舞い、苦しみのない楽しい憧れの世界と考えられています。これに対し、私たちの住むこの世界は四苦八苦などの苦しいことが満ち溢れ、それを忍びながら生きてゆかなければなりません。
皆さんは、何気なく生活している中で、自分の心の中から出てくる様々な欲望や周りの人たちの我ままなどに耐えている自分がいることに気づきませんか。この日々暮らしている煩悩や苦悩に満ちている、いわゆる俗世間を「忍耐国土=忍土」即ち娑婆というのです。
しかし、この娑婆は、ただ耐え忍ぶだけではないのです。互いの痛み苦しみを知り、暖かい手を差しのべあって、優しくいたわり、共に支え合う、素晴らしい世界でもあります。この娑婆世界に生まれて直に人間を救おうと願いを起こされたお釈迦様に感謝し、その教えをいただけることを喜ばなければなりません。
『法華経』には「この無量無辺百千万億阿僧祇(あそうぎ)の世界を過ぎて国あり。娑婆と名づく。この中に仏います。釈迦牟尼と名づけたてまつる」とあり、皆がこの娑婆のお釈迦様に向かって手を合わせたとあります。私たちはお釈迦さまのお導きにより、浄土へ行けるよう努力すべきですね。
『修証義(しゅしょうぎ)』に「今かくの如くの因縁あり願生此娑婆国土し来れり」とあります。今この世界は安楽よりも憂いわずらいの多いところです。だからこそ平安を願い求める文化が生まれ、宗教心が芽生え、仏縁が結ばれて行く因縁だと。そして娑婆世界は、厭うべきものではなく、逃れ捨てる所ではなくて、願い求めるべき所であり、喜び迎えるべき生活であると示されます。
「苦があるからこそ、仏に逢える」忍耐の徳に感謝です。
仏教用語で“ともいき”とは、人間も、植物も、動物も、鉱物のような無機物(水、空気、鉱物類などの物質の総称)もそれらすべてが、生きて存在していくと同時に、生かされていくものであり、無機物もミネラルのように、人間にとって重要なもので、そのどれ一つ欠けても、人間は生きていくことができないところから、「人間は、動物、植物、無機物のすべてと“ともいき”することによって生き、生かされていくものである」と定義されます。
一方、自然科学の分野においても共生(きょうせい)という用語があります。私達が生きてる地球は、四十六億年前に誕生し、四十三億年前に生命が誕生したといわれております。私達の地球は、太陽系において絶妙な距離関係に位置し、偶然的に月が存在しており、偶然的関連性なくして生命の誕生はありえないのであります。最初に誕生した単細胞生物は、海で誕生しましたが、その頃は酸素は存在せず、酸素があると生滅してしまう生命体でありました。やがて海中の海藻類の光合成により多量の酸素ができ、それを養分とする単細胞生物が次に誕生します。
しかし、最初に誕生した生命体は生滅せず、あとから誕生した生命体と融合し、共に生きる道を択ぶのであります。生命の出発点が共に生きる道を択ぶすばらしさに感動させられます。
仏教用語のともいきのすばらしさがまさにここにあるのです。
儀式で良く唱える懺悔文(さんげもん)の教えがあります。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)・・・私が昔から造った数々の罪とがは、
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)・・・貪り、怒り、愚かさがもととなって、
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)・・・体や言葉や心を通して造ってきたものであり、
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)・・・私は今ここでそれら一切をサンゲいたします。
私達は悪い事をしているつもりはありません。しかしながら人と人との向き合う中で、家庭あるいは社会で、ついつい他の人に不愉快な思いや、心を傷つける言葉や態度をしているかもしれません。
特に、言葉は言霊(ことだま)といわれ、言葉には霊(たましい)がこもっているといわれます。こころない一言が、その人の心を深く傷つけ取り返しがつかないこともあります。
「懺悔」とは仏教語辞典によると、「ゆるしを請うこと。くやむこと。犯した罪を仏の前に告白すること。悔い改めること。」と訳されています。
お釈迦さま在世の頃、修行者が犯した罪を自らお釈迦さまや長老(先輩の修行者)の前で告白して反省するという儀式がありました。この時、自己のすべてをさらけ出すということなので細心の配慮がなされていたそうです。告白した時点で許されていたのかもしれません。
自己の罪を認めた者は諸仏の前に懺悔し、罪の恐れから解放されるという形のものです。自ら省みて、道を正していく・・・ということでしょう。
これが中々むずかしいですね。
自分のまわりや日常の生活の中で、一人心静めて省みる機会を作ってみましょう。
私自身、孫に接しながらあの純真な眼(まなこ)で見つめられると、ほとけ様が私の心の中に語りかけているようにも感じます。
ほとけ様やご先祖様は「いつも私を温かく見守っている。私はそれに本当に応えているのだろうか」。そんな思いに出会うのも懺悔の導きではないでしょうか。
作家の高村薫さんが、「「生きた」と「死んだ」」というエッセイを、岩波書店『図書』という雑誌に寄稿しておられました。阪神大震災で大きなショックを受けた高村さんは、自分の心身に大穴があいたと思ったそうです。しかし、ある僧侶が、「震災であいたのではない。元々あいていたのに気づいただけだ」と諭し、世の無常を説いたそうです。高村さんは、仏教の教えは、我々が普段、常識だと思っていることを転換させて、迷いを解き放つと書かれていました。
永平寺を開いた道元禅師に、『正法眼蔵』「山水経」巻という教えがあります。道元禅師は、中国の禅僧が語った「青山常運歩(青き山が常に歩いている)」という言葉を取り上げて、「山は常に歩いている。人が歩く様子と同じように見えないからといって、山が歩いていないと疑ってはならない」と説きました。この教えも、普段は常識だと思っていることを転換させる教えです。
私はこの言葉を見た時、2008年に起きた岩手・宮城内陸地震で、私の寺がある宮城県旧花山村地区の山の形が大きく変わったのを思い出します。普段は動かない山全体が崩れ、あとかたも無くなり、地形が変わりました。確かに、大地震が来て初めて崩れたわけですが、元々無常だったからこそ崩れたわけです。
我々は日々の生活が安定している場合、この世界の真実の姿が無常であることを忘れます。そして、何かの事件・事故・災害などを通して無常に気づきます。ところが、先に紹介した2つの教えにあるように、常識だと思っていることは、何かの勘違いであるかもしれないのです。よくよく考えてみれば、我々のいのちは永遠ではなく、一度過ぎた時間は二度と帰っては来ません。
そのように無常を思えば、毎日毎日の生活がかけがえのないものだと気づきます。そして、無常を思う日々の生活を通して、まっすぐに死を迎えることもできる、それを仏教では「生死一如」ともいうのです。
儀式で良く唱える懺悔文(さんげもん)の教えがあります。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)・・・私が昔から造った数々の罪とがは、
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)・・・貪り、怒り、愚かさがもととなって、
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)・・・体や言葉や心を通して造ってきたものであり、
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)・・・私は今ここでそれら一切をサンゲいたします。
私達は悪い事をしているつもりはありません。しかしながら人と人との向き合う中で、家庭あるいは社会で、ついつい他の人に不愉快な思いや、心を傷つける言葉や態度をしているかもしれません。
特に、言葉は言霊(ことだま)といわれ、言葉には霊(たましい)がこもっているといわれます。こころない一言が、その人の心を深く傷つけ取り返しがつかないこともあります。
「懺悔」とは仏教語辞典によると、「ゆるしを請うこと。くやむこと。犯した罪を仏の前に告白すること。悔い改めること。」と訳されています。
お釈迦さま在世の頃、修行者が犯した罪を自らお釈迦さまや長老(先輩の修行者)の前で告白して反省するという儀式がありました。この時、自己のすべてをさらけ出すということなので細心の配慮がなされていたそうです。告白した時点で許されていたのかもしれません。
自己の罪を認めた者は諸仏の前に懺悔し、罪の恐れから解放されるという形のものです。自ら省みて、道を正していく・・・ということでしょう。
これが中々むずかしいですね。
自分のまわりや日常の生活の中で、一人心静めて省みる機会を作ってみましょう。
私自身、孫に接しながらあの純真な眼(まなこ)で見つめられると、ほとけ様が私の心の中に語りかけているようにも感じます。
ほとけ様やご先祖様は「いつも私を温かく見守っている。私はそれに本当に応えているのだろうか」。そんな思いに出会うのも懺悔の導きではないでしょうか。
最近の経済政策であるアベノミクスにより経済環境が変わるといわれていますが、乗り切るにはどうすればよいのでしょうか。仏の智慧にすがりたい思いもいたします。
仏教語における智慧とは、六波羅蜜という悟りの境地に達するために実践する六つの徳目である、布施・精進・忍辱・持戒・禅定・智慧、の中の一つであります。
世界の宗教の中でも、仏教は智慧の宗教といわれますが、智慧の体得は決して容易なことではありません人間の五感(見る・触る・嗅ぐ・聞く・味わう)では感じることが出来ないものであります。
学校教育の現場では、知識の詰め込みだけでなく、生きるための智慧を教えることが大切だ、ともいわれますが智慧は単に科学的な知識ではなく、頭の回転が速い、利口利発のような現実的なものでもありません。その人が正しく生きてきた時に形成された人格から滲み出る言葉や発想がその人の人生の指針となり、善い方向に向かわせる作用を持つのが智慧なのです。
仏教における智慧の意味は、「仏教の基本思想によって一切の存在の本質を見通す働きであります。この基本思想とは、すべての存在は縁によって起こっているもの(縁起)であり、相互に関係し合って存在しているのであるから、関係性を抜きにしては独自に存在し得ないもの(無我・空)である」、であります。
例えば、私たちの生活環境は時代時代で変化いたします。その時に、私だけは絶対に変わらないぞとがんばっても、世の中の流れには逆らえず変わってゆく、つまり無常、常なるものなど何も無い、それを空というのであります。
人の健康や政治経済も同様ですが、この世のあらゆるものは移ろいやすいので、怠ることなく精進し、そして智慧を使い、すべての不安を捨てて前向きに生活しなさい、という仏の教えが心に響きます。